非物質的労働

アントニオ・ネグリ講演集〈上〉“帝国”とその彼方 (ちくま学芸文庫)

アントニオ・ネグリ講演集〈上〉“帝国”とその彼方 (ちくま学芸文庫)

アントニオ・ネグリ講演集〈下〉“帝国”的ポスト近代の政治哲学 (ちくま学芸文庫)

アントニオ・ネグリ講演集〈下〉“帝国”的ポスト近代の政治哲学 (ちくま学芸文庫)

アントニオ・ネグリの新訳。講演録をもとにしているので、ある程度知識があれば読みやすい(が、わからなかったら舌足らずで読みにくいかも)。
私は、ネグリがずっと言ってきている「非物質的労働」(lavoro immateriale)の概念がすごく気になっている。たとえば、上記の本においても述べられている。ネグリによればそれは、「知識、情報、コミュニケーション、言語的あるいは情動的な人間関係など、非物質的な生産物をつくり出す労働」である(『アントニオ・ネグリ講演集〈上〉“帝国”とその彼方 (ちくま学芸文庫)』p.151)。社会思想関連では「ポスト・フォーディズム」が言われていたりもする。そんな中で思うのは、本当に物質的労働/非物質的労働という二分法が、ここ100年あたりの労働、あるいは労働の社会思想の歴史を通覧するにあたり、有効なものであるかどうかである。同じ非物質的労働といっても、医療や介護、看護、教育などは、どれを比べても違うはずだ。私などは、労働の指標をもし作るのであれば、「ひとの生存にどのくらい直接に関連するか」を見たほうがよいのではという案があるが、どうだろう。もちろん、「直接かかわる労働こそがよい労働」であることを意味するものではまったくない。教育などは、直接生存にかかわるわけではないが、生きることの指針を決定するに重要な役割を果たし得ると私は考えている*1
ところで、「ベーシック・インカム」に関するWikipediaの記事は面白い。その「思想的系譜」には、以下のように書かれてある。

ベーシック・インカムの思想的起源は古い。「国家が生活を保障する」構想として考えた場合、欧米ではその起源は16世紀ヨーロッパにあるとされる。以後、18世紀末にはイギリスにおけるトマス・ペインの『Agrarian Justice』、トマス・スペンスによる土地の共有化構想、1930年代大恐慌後のアメリカで提起されたソーシャル・クレジットなどが挙げられる。「1968年」前後にはイタリアを中心としたアウトノミア運動が提唱した「社会賃金」、マリア・ローザ・ダラコスタ(Mariarosa Dalla Costa)らイタリア・フェミニズムの論者による「家事労働に賃金を」、イギリス要求者組合による「保証所得」、日本の「青い芝の会」の活動、フランスのリオネル・ジョスパン政権下での「普遍給付」構想などがBIの系譜に連なる思想・運動として挙げられる。

イギリス要求者組合とは、確かおぼろげな記憶によると、性労働者の組合で、「性労働を否定するが、性労働者を肯定する」というスローガンで、性労働に関わる労働条件の向上を求めながら、他方で性労働を強いる社会構造をも問題にしていった(間違いがあればご指摘ください)。青い芝の会の思想と、ネグリらの思想のもとになったアウトノミア運動の思想との共通点は、昨今指摘されている。kanjinaiさんが書かれた『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』では、青い芝の会と優生思想との関連が述べられているが、もうひとつの軸はやはり、障害者の生活保障・所得保障を思想的にどう考え、実際にどう政策に結び付けるかが重要な問いとして横たわる。彼らは生活保護では旅行に行くことができないと、「障害者にも旅行させろ」と駅前でカンパ活動を行った。また、介護の現場においては、「障害者が糞したり、介護者に尻拭いさせるために腰を上げたりすることも労働である」と述べた。これらの発言の当否はともかく、「労働とは何か、働いて賃金を得ることは何を意味するか」は、巨大な問いのような気がしている。たとえば、ネグリの思想から、介助/介護をどう考えるのか。労働政策の方向性を見誤らないためにも、規範的労働論というか、労働の社会思想論はこれから現実的な話として求められていると思う。

*1:そのことはサイードも『ペンと剣 (ちくま学芸文庫)』などで力説している。