こういうのをバックラッシュと呼ぶのだろうか

 私は、あまりバックラッシュ陣営とは絡むつもりはなかったのだけれど、ちょっと、「あんまりだ」と思ったので書いておく。(でも、すさまじくどうでもいいことなので、閉じておく)

 私の記事にたびたびコメントを寄せてくださった、gender otakuさんが、田中美津批判をしている。私が直接の論争当事者でもないし、gender otakuさんの指摘が正しいかどうかは、実際に『いのちの女たちへ』を読めば、すぐにわかるので、私が口を出すのもどうかと思う。でも、とりわけ「あんまりだ」と思った部分を指摘しておく。

 74頁には、「山へ行かねばならない男は、女の一歩前を歩かねばならず、川へ行かねばならない女は、男の一歩後を歩かねばならない」とある。田中美津は「男が前、女が後」を批判しているつもりで、それを逆に固定化する本質主義になっている。日本は伝統的に「男が前、女が後」として成り立っていたのだろうか?

 ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』岡田章雄訳、岩波文庫(48頁)

29 ヨーロッパでは夫が前、妻が後になって歩く。日本では夫が後、妻が前を歩く。

なんでやねん!gender otakuさんが引用した周辺を、私が再引用しておく。

 おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に、という男女の固定化された分業こそ、性差別を産み育ててきたその元凶だが、それは男は山へ、女は川へ行かねばならないという強制を作り出すことによって維持されてきた。山というのは社会、川というのは家。つまり、男の「生きる」は社会に向けて、女の「生きる」は男に向けて、それぞれ存在証明していく中にあるという論理が、男女の固定された分業を通じて作り出され、それは長い歴史過程の中で巧みに構造化されてきた。男奴隷は労働力商品として、それぞれ効率よく使い切るために、男と女の存在証明のあり方その違いが生み出されてきたのだ。<男らしさ><女らしさ>は、それぞれの本文であり<自然>なのだという人がいるけど、冗談じゃない、生ま身の人間である限り、川へ行きたい気持、山へ行きたい気持の両方があってこそ<自然>なのだ。山へ行かねばならない男は、女の一歩前を歩かねばならず、川へ行かねばならない女は、男の一歩後を歩かねばならない。<男らしさ><女らしさ>は自然の本分どころか、その不自然さは強迫観念と化して、<りっぱな男>と<バカな女>の役割を、それぞれに押しつけてくる。
(引用者注:傍点は省略した)
河出文庫版、72ページ)

ここを読んで、なんで田中さんが本質主義者だ、と思うのかが、わからない。さっぱりわからない。*1恣意的にやっているのかどうかも、わからないが、これが天然ボケでそう解釈したなら、どう説明したら良いやら…。

 あと、田中さんがどうやって、女の加害性を問うているのか。本当に、これは読んだらいろいろありすぎて、書くのが大変、っていう話なんだけど、私の好きな一節を挙げておく。

 道で、自分が男だったら、まず抱く気が起きない、という風な女に出会うと、あたしは無意識に目をそむける。そむけつつ、あたしじゃなくてよかったとまず思う。しかし、自分がその女から目をそむけた瞬間、見しらぬ誰かが、あたしから目をそむけるのが視える。みめ形よい女に出会うと目をそむける。そむけつつそこに自分を視る。「アザを気にしないで素顔で歩きます」というそのことばに脅えるあたしは、自分の分身が、ひとり自分を解き放していくさまに、取り残される自分を予感するのだ。人から顔をそむけられるばかりで、そむける相手を失ってしまうことへの、それは恐怖に他ならない。
河出文庫版、78ページ)

 田中さんだけを、リブの担い手とすることは、正しいとは思わない。しかし、それは、他のリブの担い手を紹介することによって、是正される問題である。*2田中さんの文献が重要であることと、リブの運動に多様性があったことを指摘することは、両立する。(ていうか、田中美津以外に、ちゃんとリブの人を知ってるのかい?とも思った。念のために、下に、私の手元にあるリブ本を紹介しておきます。)

 論争がしたい、というわけではなくて、「田中美津って誰?」という人のために、一応紹介しておきました。ネット上の文献の引用の仕方って、本当に恐ろしいな、と自戒をこめて思いました。

輝いて、しなやかに―物語 男女差別裁判の40年

輝いて、しなやかに―物語 男女差別裁判の40年

*1:ちなみに、このあと、なぜ田中さんが、女のほうが、男より苦しい立場にあるのかを書いていく。残念だけど、長くなるので割愛しました。

*2:たとえば、山口智美さんは、せっせと田中美津中心ではないリブ史を紹介しようと試みている。