「正しく生きたい」ということと、「正しくなくても生きられる」ということ。

 eireneさんが前に取り上げているWeb評論誌コーラに載っている、野崎泰伸「どのように<倫理>は問われるべきか」を読んだ。何度かこのブログでも取り上げたけれど、以下の部分がまだスッキリ納得いかない。

 倫理的に「よく生きる」というのは、私たちが通常行うような行為のよし悪しの判断とは次元を異にする。「私はどう生きればよいのか」を問う人は、すでにその人自身の「生の形式」を生きてしまっている。その問いの次元と、「いまここで私は何をなすべきか」という問いとは、区別される必要がある。「いまここで私は何をなすべきか」という問いは、すなわち、現在の状況下での行為の正当性を問題にすることは、現状を「すでに与えられたもの」として不問にしてしまう。さらには、「正当な行為を行うものこそが生きるに値する」という、生に資格や制限を付してしまうのである。こうした混同が、「よく生きる」という主題を、単に「生きてよいのか、悪いのか」という問いへと変換させてしまうのである。

野崎泰伸「どのように<倫理>は問われるべきか」『Web評論誌 コーラ』(http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index1.html

私は倫理とは、「正当に生きたい」という欲望の貫徹だと考えている。しかし、その欲望に正当性はない。よって、「正当に生きる」ことで生が保証されるわけではない。にも関わらず、「正当に生きる」ことを望み、行為することが倫理である。生の保証は「正当に生きる」ことに付与されない。だから、「正当に生きる」ことは(たいてい大変だから)損をするだけだけれども、その損なことになぜか走ってしまう人間の不思議が、私の言うところの倫理である。*1この「正しく生きたいー!」という欲望*2は、それこそ無根拠で、<空っぽである私>という存在から湧き上がってくる。それが事後的に見て、正しい行いにつなげられたかどうかという結果、ではなく、欲望を追い続けるという行為を持って、倫理となす。
 倫理を目指す人が求めるのは「他者の承認」かもしれないが、倫理がもたらすものは「他者の承認」ではなく行為とその痕跡である。何をしたら正しく生きられるのかはわからないが、正しく生きたいという欲望に忠実に走り、正しく生きたところで省みられることもない、というのが倫理である。*3
 野崎さんは、倫理における「無根拠性」を主張していて、私はそこは共有できる部分もあると思うが、私の場合、無根拠であるが、人はそれを望むということに重点をおいている。では、無条件の生の肯定が必要でないか、というとそんなわけではない。「『よく生きる』という倫理学における一つの主題とは、『誰かの生はよくないから生きるに値しない』ということ、およびその正当化を含意するものではない」(同頁からの引用)ことと、「正当に生きたい」という欲望は両立するはずである。「正しく生きたい」人が、行為の結果、「正しくなくても生きられる」ことを保障すればよい。現状において何をすべきかを選択しつつ、現状を変えていけばよいはずだ。

*1:控えめに書いてるけれど、気持ち的には、「これを倫理と呼ばずして、なんと呼ぶのだ!」という感じ。

*2:逆に「悪いことをしてやるー!」という欲望、という問題にも興味はあるけれど、そこのところはまだ整理できてません。

*3:ここの部分は森岡正博無痛文明論』と同じ事を言おうとしてるんじゃないの、私?と思うこともあります。