仏教と不可知論

仏陀のいいたかったこと (講談社学術文庫)

仏陀のいいたかったこと (講談社学術文庫)

当時、「来世はあるか」「来世に生まれ変わりはあるか」「善悪の果報は来世にうけるか」「ブッダは来世に生まれ変わるか」などの問題が、多くの哲学者や宗教家たちによって論議されていた。サンジャヤは、それらは来世の問題で、人の知識の及ばないところであるから、論じるに値しないと考えた。
たしかに死後の世界について誰でも教えてくれた人はいない。死後の世界についての文献もない。書かれていても経験の上で伝えたものではない。想像の域を出ない。そこでサンジャヤはそんな形而上の問題についての思考は停止することをよしとした。
だがマウドガリヤーヤナ、シャーリプトラたちは、来世のことは確かにわからないかもしれないが、わからぬというだけで、来世についての思考を停止することはおかしい、と考えた。この生存のなんらかの連続として死後があるとすれば、そこに何かの説明ができるはずであり、それを、ただ人知を超えたところといって思考を放棄するだけでは、一体いまの修行は何のために行っているのか、ということになる。
(中略)
釈尊も来世についての論議は好まなかった。なぜか。ただ来世があるといえば、その実態を説明しなければならない。経験がないのにそれを説明することは不可能である。といって、来世がないわけではない。今世における修行の意義と、その目的である解脱の意義とがかみ合わなくなるからである。ただ釈尊は来世に関する一切の問題について、解答を与えなかった。それは答える必要がなかったというより、因果の道理の上からすれば、おのずから解答が与えられるからである。(pp.51-52)

仏教の倫理思想 (講談社学術文庫)

仏教の倫理思想 (講談社学術文庫)

ゴータマ・ブッダは、一口で言うと、実存主義的経験論者でした。つまり、ゴータマ・ブッダが関心を集中したのは、みずからの実存である輪廻的な生存(という苦)にまつわる経験的な事実と、それらが織りなす因果関係の鎖がどのようにあるかということでした。(p.60)

「死後は存在するか」などの形而上学的問いについて、ブッダは答えを与えない。しかし、それらは不可知だからといって、考える意味はないということはない。ただ、ブッダにしてみれば、実存的な経験からの因果関係における語りこそが重要であったのだと解することができるだろう。
「生を一回限りのものとするか」、「死後の生も存在するとするか」は、明らかに世界観の問題であり、その世界の上で成立する価値の問題である。さしずめ、これらの問いを――不可知ゆえ考えない、のではなく――考え抜こうとするならば、自らの実存を賭けなければならない、そのようにブッダは教えてくれているのかもしれない。