宮尾登美子「鬼龍院花子の生涯」

鬼龍院花子の生涯 (文春文庫)

鬼龍院花子の生涯 (文春文庫)

 大正時代の、高知のヤクザ鬼龍院鬼政の養女に入れられた松恵の視点から語られる、一家の興隆と没落と翻弄される女たちの小説。ヤクザの商売や政治取引に差し込むように、妾同士の駆け引きや実子である花子が生まれてからの鬼政の変化などが描かれる。
 青山光二の解説では、鬼政の物語とされているが、素朴に見れば松恵の物語である。松恵は、無賃で小間使いをさせられ、家を離れようとするたびに、引き戻され、終生花子の面倒を見続けることになる。虐げられ、鬼政に強姦されそうになりながらも、松恵はこの家から「逃げられない」女の一人である。しかし、松恵は勉学に励み、教師の資格を持ち、縫い物の仕事をし、愛する男性と法律に縛られない関係を続け家庭を築こうとする自立した女性という側面を持っている。恩でもなく、家族の情でもなく、経済的理由でもなく、なぜか松恵は「逃げられない」のだ。
 中でも松恵を家に縛り付けていた張本人の鬼政が、死にゆく姿を目にして、松恵はこう思う。

店の柱時計がゆるく一時を打ったのを聞いて松恵は便所に立ち、空を見上げると、凍った空に白鳥座が思いがけぬ近さに見え、その羽の部分を黒い樟の大樹が風に揺れて、掩ったり露にしたりしているのであった。星を見ていると、松恵は何ともいえぬ不吉な感じに打たれ、思わず地面にひざまずいて、
「神様、お慈悲あればいま少しお父さんの命を長らえさせてやって下さい」
と一心に祈った。
 あとで思えば、虐げられ続けた、親とも呼べぬ男の延命を、何故神に祈ったのか不思議な気がするけれど、そういう思考判断を超えて、もう一度あの横虐非道な往事の鬼政の姿に戻してやりたかったのではなかろうか。祈りの途中、松恵はふと、高い金属音に似た氷の割れる音を聞き、立って手水鉢を覗くと、そこには星かげこそ棲んでいても、まだ薄氷も張ってはいなかった。はっと胸を衝かれて座敷に戻ってみれば、歔欷の声は部屋に満ち、鬼政はたったいま息を引き取ったばかりだという。松恵は呆然として、その赫顔がみるみる青ざめ、死に顔に変わってゆくのを見つめながら、ぴしりっ、と厳酷な、氷の裂ける音だけを残してあの世に旅立った六十八歳の鬼政を思った。(204頁)

「逃げられない」女の複雑さがここにある。愛だの、憎しみだの、伝統だの、差別だのを全部超えて、ただひざまずき祈る、誰にも触れられない一点が鬼政と松恵の間にはあるのだ。しかし、それも、一瞬で終わり、また松恵はこの家から「逃げられない」運命に嘆息し、虐げられる現実が続いていく。
 松恵が逃げられなかった理由には、設定された時代情勢や鬼政の政治力もあるだろう。圧倒的に、女性が虐げられることがまかり通った社会である。このような虐げられた女が逃げられる社会にしていくのは、当然の課題であるし、残念だが現在も女が「逃げられない」ような状況は続いているのだから、変えていかなければならない。
 一方で、宮尾さんは最後まで松恵を惨めな存在と描かなかった。松恵だけではない。出てくる女たちは長所も短所も織り交ぜ、扱いも様々だが、それぞれが欲望を持ち計算し、翻弄されながらもあがいている。「逃げられない」女は、「逃げられない」中でも、種種にもがき奮闘する。それが成功しなかったとしても、何もせず黙って死んでいくのとは違う。「可哀想な女たち」でもなく、「昔の女は偉かった」でもなく、「逃げられない」女の生き様を書こうとする宮尾さんの姿勢が私は好きだ。たとえ、虐げられ場所から「逃げられない」としても、みんな、なんとかして、幸せになりたいと思っている。