喜納育江「ネイティブなるもの 魂の交わりを求めて」

境域の文学 (21世紀文学の創造 5)

境域の文学 (21世紀文学の創造 5)

 先日、あるナショナリズムについて議論する場で、「沖縄」という問題が俎上にあがった。日本という国について考えるとき、沖縄は日本国の一部で、地方の呼び名である。ところが、沖縄戦アメリ占領政策、米軍基地などの問題を考えるさいには、特殊な共同体を名指すことになる。あるときは、沖縄は日本であり、あるときは日本以外であるかのように、扱われる。「私たち/沖縄の人たち」と、境界線がいれられるのだ。このような、境界領域をグロリア・アンサルドゥーアは「ボーダーランズ[borderlands]」と呼んだ。『境域の文学』に収録されている、喜納育江「ネイティブなるもの 魂の交わりを求めて」では、このボーダーランズとしての沖縄が論じられている。
 喜納さんは、琉球大学助教授で、自らを「ウチナーンチュ」だと言う。自身の中には「私以外の人によって認識される『ウチナーンチュとしての私』ではなく、私自身がこうありたい、こうであると規定する『ウチナーンチュとしての私』」(206ページ)があるという。このアイデンティティの強固さがどれほどのものか試すかのように、喜納さんはアメリカに渡る。そして、どこにいても、身体を通して沖縄の土地と共同体につながることのできる「私」を発見する。根っこに、「ウチナーンチュとしての私」があることで、自由でいられるのだという。しかし、このアイデンティティは不変ではないと付け加えている。

「私」も「私」でいたいなら、「沖縄」によって定義されるばかりではなく、「沖縄」との対話において、こうあってほしい「沖縄」の姿を定義しなくてはならない。このように、生涯をかけて沖縄と関るというウチナーンチュとしての責任を「呪縛」と捉える人もあろう。しかし、共同体との関係性の中において存在する「私」は、その「呪縛」を「きちんと縛られる」こととして、いつしか積極的に受け入れるのである。

(208ページ)

ウチナーンチュのネイティブ(土着)としての自分を受け入れた喜納さんは、土と肉体がつながり、「ウチナーンチュの物語」を共同体の声として、沈殿させていく。と、同時に、ヤマト(内地)からの、沖縄のイメージを語る声にさらされる。ウチナーンチュという共同体内部の他者の声と、ヤマトという共同体外部の他者の声が錯綜するのが沖縄という場所であると喜納さんは述べる。そして、沖縄とは、「『他者』の声を聞き、『他者』の姿を可視化しようと試みる場所」(211ページ)であるかもしれないと定義する。
 さらに、喜納さんは、ヤマトゥンチュ(内地の人)と、ウチナーンチュの文学作品を分析する。ヤマトゥンチュが作った『ナビィの初恋』『青い魚』は、デフォルメされた「オキナワ」であるという。それはウチナーンチュの好む・好まざるを超えて分有可能になった虚像である。だが、喜納さんは、続ける。

ヤマトゥンチュが勝手に想像し、勝手に作り出した「沖縄」に対して、ウチナーンチュとして違和感が不快感となる場合もなくはない。しかし、そのような一見フェイクなオキナワでさえ、沖縄なのである。どれがホンモノでどれがフェイクなのか、という議論はもはや成立しない、というのが、常に変容していくことを前提とした境域[引用者註:ボーダーランズ]としての沖縄のありようであると言えるかもしれない。

(219ページ)

ボーダーランズである沖縄は、このような分有に揉まれながら自文化形成してきた。ヤマトの視線にさらされ、消費の対象とされてきた。見られる対象としての、「オキナワ」は、ときには「ヤマトに追いつきたい、受容されたい」と望み、ときには商品価値をあげようと、ヤマトのまなざしを意識してきた。そして、ついには、ヤマトが勝手に見ている虚像であり、他者としてしか認識できない「オキナワ」もまた、「沖縄」であると内なる他者として飲み込む。
 一方、文学作品で、この関係が反転すると、喜納さんは、指摘する。又吉栄喜「ジョージが射殺した猪」について論じている。この物語は、ベトナム戦争下が舞台で、小柄で貧弱な兵士ジョージが主人公である。ジョージは沖縄の訓練風土や、軍隊という異文化接触の衝撃で、自己が揺らいでいた。以下、長いが、引用する。

 ジョージの揺らぐ自己は、沖縄とアメリカの間に横たわる差別の多重構造の中で、異文化の声に反応せずにはいられないジョージの主体であり、その人物像は、例えば物語の冒頭に出てくる、平気でホステスを強姦するような横暴な米兵などに見られるアメリカ人のステロタイプを崩す。「沖縄人は正面から俺たちをみやしない」と言う一方、まじまじと俺の顔をみすえる」沖縄人ホステスに対しては「どきまぎしてしまう」とジョージは白状する。そして、挙句の果てにはこの「ジョージより英語が流暢なウチナー女の声を聞き届ける羽目になるのだ。

あんたらにゃ沖縄の女はみんななぐさみもんだもんね、そりゃ、あたしらのようなもんはしかたがないよ、承知してるよ、だがね、ちゃんと結婚しながら、チャーチで神父や神にちゃんと誓いながら、アメリカに帰るとすぐ汚いチリみたいに捨てちまうのはどういうわけなの?ああ、あたしの村にも何人かいるんだ〔中略〕あたしの妹もそうなんだから、赤毛の子供を残してね、アメリカ軍人はみんなそうさ、アメリカにエミリーがいるんだもんね、だまされた女らが馬鹿なんだろうけど、そのエミリーなんてもんが沖縄の女をめちゃくちゃにしてるんだよ。エミリーを悪くいうな。ジョージは叫んだ。エミリーはお前たちとは違うんだ、男の前で平気で裸になる女とは違うんだ。

 女がアメリカ人のジョージをなじる声と、アメリカ人のジョージがウチナーンチュの女を罵倒する声は分離することなくひとつの声として語られる。それは、作者が、ウチナーンチュとしてジョージのまなざしを表現するのに挑むと同時に、そのジョージのまなざしに映るウチナーンチュを描くことにより、ウチナーンチュとアメリカ人の間に対話を成立させようとしているようにも見える。すなわちアメリカ社会において周縁に追いやられたジョージという他者の声と、やはりそのアメリカ人にとって他者として差別されているウチナーンチュの声をフィクションと言う場において交わらせることによって、異文化の声が混交する領域を創造しようと試みているように思われる。それはフィクションに終わってしまう領域なのかもしれない。しかし、同時にフィクションと言う形でしか達成できない異文化的対話の可能性の実現なのである。

(230〜231ページ)

加えて重要なのことは、このジョージの視点は、又吉さんというウチナーンチュが創造しているということだ。米兵というウチナーンチュの他者の視点に入り込み、それを占有するのだという。そうして、見られる対象としての沖縄を、見る主体という位置から語りだす。これはフィクションだからこそ、できる手法である。サバルタン<の>声を奪うのではない。サバルタン<が>声を奪うのである。

 このあと、喜納さんは、新しい若い沖縄運動の担い手としてCocco*1を挙げている。私は、ここで以前、NHKの番組で取り上げられていた劇団を紹介しようと思う。その名も「お笑い米軍基地」(http://www.pottekasu.com/)サイトを見ても、もう一つ伝わらないかもしれないが、テレビで見てると強烈だった。脚本を書いている小波津正光は、現在の沖縄の状況を笑いの対象にする。街頭では、マイクによる基地反対演説と、右翼のスピーカーが、大音量でぶつかる。これを見ながら小波津さんは「正反対のキャラが出てくる。これはコントでしかないですよ」とネタにする。さらに、周囲のうっすらと基地反対ではあるのだが、運動に入り込めない、市井のウチナーンチュにインタビューしていく。
 小波津さんが上京して知ったのは、ウチナーンチュなら、誰もが知っている沖縄の状況が、全くヤマトでは知られていないことだった。基地反対の次の日に、基地内で行われるお祭りに参加する事は、ウチナーンチュにとっては、おかしなことでも、なんでもなく日常である。その矛盾を洗い出し、ネタにする。年々、参加人数が減る「人間の鎖」や、疲労感が漂う「反基地運動」はもとより、「慰霊の碑」までネタになっている。
 ネタはどれもギリギリである。正直、「わ、笑いにくい…笑っていいのか、これは」というネタもある。それでも、悪ふざけで終わらないのは、沖縄という問題の核心を突こうとしているからだ。私の大好きないいまわしに「笑いごとではないが、笑うしかない」*2という文句がある。まさに、そういう感じだ。真面目さを徹底して、真摯に向き合ったその後にみえてくる、ちぐはぐさや、ほころびを笑う。それは問題の内部に沈潜し、脱出口を見出す作業の中で発見される。沖縄でも、新しい世代の運動が、少しずつ顔を出してきているのかもしれない。

*1:詳しく書かないのは興味がないからではなくて、ありすぎてまとまらないからです。

*2:出典はパット・カリフィアです。