秋山駿「内部の人間の犯罪」

内部の人間の犯罪 秋山駿評論集 (講談社文芸文庫)

内部の人間の犯罪 秋山駿評論集 (講談社文芸文庫)

 表題作の「内部の人間の犯罪」は、初出が1967年になっている。文庫版になり、再録されている。もしかすると、有名な文章かもしれないが、私は初めて読んだ。1958年の、小松川女高生殺人事件で加害者になった少年の心理を、推察したもの。あまりにも詩的で感傷的すぎるきらいもある。しかし、よく踏み込んだ考察になっている。
 秋山さんは、加害少年を「内部の人間」と称する。内部の人間は、自己内におのれの世界を生み出して、充足しようとする。秋山さんはこう書く。

 閉ざされた場所で自己完了しているものは、いわば本当の自分を仮死状態においている。そこで、つまり、偽りの無私、というような状態が成立する。この状態が外部、あるいは相手の人間に向けられるとき、外部がどんなに任意のまた思いがけない展開や行動を示しても、それがそのまま、この状態に描かれるところの一つの軌跡になってしまう。そのすべてがわが事のように完了してしまう。そういう性質をもつのだ。無私のカンヴァスにはどんな線も可能だから。相手が勝手なことをする。それこそ想像された、むしろ予期された行動だったのだ、と思うことだけはこちらの自由なのだ。これが内部の人間の秘密の生活の場所だ。
*引用者注:傍点は省略した
(25ページ)

そして、加害少年の手記を引用しながら、「自分が殺した」とわかっているが、それがリアリティを欠いた状態だと述べる加害少年を分析する。

 人を殺しながら、絞めているのはおれだと考えながら、しかもその全体は夢のように感ぜられる――これは外部からの証明を欠いた内部的行為の性質である。内部的行為とは意識の内部でのみ完了するような行為である。それは結局、夢のような行為、あるいは夢のなかの行為である。意識が意識を追い、想像が想像を追う、それだけが唯一の渦動であるような内部に閉じこめられている人間には、ある行為のどこまでが内部であり、どこまでが外部であるか、その区別があいまいであり境界の標識が厳密さを失って稀薄になっている。
(略)
 夢のような行為から一歩をふみ出す。あいまいな夢の世界に忍耐し切れなくなったために、とにかく一歩をふみ出す。その動力となるものが、思考の作用であるか、自慰行為の発展であるか、それはどうでもいい。この一歩が兇行となってあらわれる。
 兇行として行われたものは外部である。しかし、彼は、自分の内部から一歩をふみ出しただけなのだ。事件の全体のどこに自分に意想外な新しい現実の一片があるのか。全体はその細部まで一つ一つ、想像のなかの事柄と同一の状態であり、等質の性質ではないか。もう一度同一のことがあるにすぎない。これはやはり夢のような行為であって、一つの新しい現実の体験ではない。どうか自分に、それが一つの恐るべき行為であり、一つの異常な経験であることを、強く実感させてほしい。わからせてほしい。これが内部の人間の弁証法である。
(45〜46ページ)

 この二十年後、秋山さんは、事件の裁判調書を読んで憤慨している。

 もし犯罪が、一国の知的水準を示すものなら、というより、その国に住む市民の生の意識が、人間的生存の深さを手探って測る、深度を示す目盛りのようなものだとすれば、この事件に見る限り、犯罪へのわれわれの感受性は、おそろしく低くて、鈍い。この裁判調書には、犯罪を愛撫しているという趣がない。おそろしく鈍感で、もっとわるいことには、生きた人間を歪曲し、なるべく犯罪モデル人形に近寄せて処刑してしまえばそれで済む、といった、生への無関心を露呈している。ここに描かれた犯罪は、小さな檻に入れられ、飼われ、観察されている低い動物のそれである。小さな檻に入れるから犯罪が惨めになるのだ。檻とは、犯罪へのわれわれの頭脳の機構であり、日常の意識である。われわれは恥じなければならぬ。われわれへの犯罪への意識には、いかなる繊細さもなく、また、想像力というものがまったく欠けているのだ。(警官よ、裁判官よ、新聞記者よ、それは君等のことだ。そしてあるいは、この私のことだ)。檻を壊してみよ、犯罪はたちまち生気を帯び、暗く、謎めき、しかしときに異常な輝きを発しながら、一匹の黒豹のごとくに疾走するであろう。
(204〜205ページ)

秋山さんの、犯罪への思いいれは、あまりにも深い。加害者を英雄視しかねないくらい、熱心である。しかし、現在の、犯罪加害者への盛り上がっているバッシングより、生々しくて熱情的だ。普通では考えられないような、おそろしい行為をなしてしまう加害者とは、いったい何かという疑問を執拗に追う。加害者になった人間と、そうでない人間の違いが、紙一重でありながら、埋まることのない断絶であることを描く。「私も人を殺したかもしれない」ということと、「私は人を殺した」ということの間には、決定的な差がある。その差は、繊細になり、想像力を限界まで働かせなければ、浮き上がらないのだと、秋山さんはいう。
 現在、秋山さんが「内部の人間」と称するような加害者は、精神鑑定にかけられ、なんらかの精神異常として病名がつけられるだろう。精神科医責任能力の有無を確定するだけではなく、マスコミ報道などで、コメンテーターのタレントまでもが、いっぱしの診断をくだす。秋山さんは、この文章の中でも、精神分析や心理学に偏重する世相に批判的である。しかし、当時とは比べられない勢いで、精神医学は、重んじられるようになった。その結果、人を殺す人間と、殺さない人間の差は、DSMによって説明されるようになった。
 一方で、秋山さんが引き合いに出すのは、文学作品である。ドストエフスキー『白痴』、カミュ『異邦人』の登場人物と、加害少年を比較する。また、2005年には、昨今の少年犯罪を論じて、秋山さんは、「内部の人間」が外部に一歩をふみ出すのは、早熟な詩人が初めて詩を書くのと似ているのだといっている。「なぜ殺したのですか」「わからない」という問答と、「なぜ詩を書くのですか」「わからない」という問答を重なり合わせる。

 文学は、次のように考える。
「分からない」というのは、真に分らないわけではなく、人が心の奥に秘めたる言葉、それを、原因と結果を二二が四のように結ぶ社会の言葉に翻訳することができない。あるいは、秘めたる言葉を、生のまま現実化する言葉を見出せない、ということであろう。その秘めたる言葉を探るのが、文学である。
(276ページ)

 秋山さんの言葉づかいは古く、読みにくい。しかし、現在の日本の犯罪についての言説の中で、かなり面白い。加害者は異常である、というのは当然である。その異常さに接近するためには、秋山さんのような異常な熱情が必要なのかもしれない、と私は感じた。