朴裕河(パク・ユハ)『和解のために』
- 作者: 朴裕河,佐藤久
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2006/11/21
- メディア: 単行本
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韓国からの留学生の友人の話では、今の韓国では日本思想が大ブームだという。特に柄谷行人は、韓国語に翻訳されたものも多く、「今、一番注目を集めてる思想家」らしい。
朴さんは、そんな韓国で日本文学を研究している。柄谷行人や夏目漱石の翻訳を手がけてきた。そして、5年前に『反日ナショナリズムを超えて』を出版し、賛否両論を読んだ。さらに、2005年に上記の『和解のために』を刊行したのだ。
『和解のために』で、朴さんは「教科書」「慰安婦」「靖国」「独島」*1の4つの、多くの研究者が避けて通りたがる問題に、真っ向から取り組んでいる。日本の動きと、韓国の動きを同時に描き出しながら、お互いに誤解をしたまま溝が深まる様子を浮かび上がらせる。両国が、いかに相手のことを捉え損ねたまま、関係がねじれていくのかを、あらわにする。
重要なのは、この本で朴さんが、韓国人として、韓国の自己批判を促していることだ。例えば、慰安婦問題では、朴さんは、日本が加害主体であることを当然の前提としながら、「慰安婦」当事者の視点の重要性を強調する。「慰安婦」に対する(はずだった)保障を、国内のインフラに使ってしまった政府への批判、「慰安婦」に無垢な被害者のイメージを押しつけようとする動きへの批判、「慰安婦」に国民基金*2を受け取らせないように圧力をかけた運動団体への批判、売春婦差別への批判、そして韓国の女性を「慰安婦」に無理矢理させようとした韓国人がいたことにへの批判がなされる。*3
韓国で、朴さんは多くの批判を浴びているようだ。日本をかばっているとみなされている。しかし、朴さんは日本を免罪するつもりはないと明言している。
周知のように、「慰安婦問題」は、「民族」の問題であるばかりか本質においては「性」の問題であり、「階級」の問題である。現在の日本人が「日本」人の思想であるがゆえに彼女たちの「不幸」に対して「責任」があるとするなら、当時貧しい彼女たちを「慰安婦」に送り出し、学校や結婚に逃避した結果、貞淑な女性として残ることができた有産階級の子孫であり、朝鮮人募集策に関わった者たちの子孫であり、彼女たちを蹂躙した朝鮮人男性の子孫である韓国人にも、責任がなかろうはずはない。
韓国のなかの責任を問うことは、日本の責任を薄めることにはならない。むしろもっとも大きな責任を負うべき、「発案」し「命令」した者の責任をいっそう明確にするためにも、「遂行」した者に対する責任は問われねばならないのである。(91-92頁)
どこまでが日本の責任で、どこからが韓国の責任なのか腑分けしていくこと。そうして問題を精緻に掘り下げることで、日本の責任の大きさはよりいっそうと明らかになるという。
朴さんはデリダ*4を参照していることを、日本語版のあとがきで書いている。
フランスの哲学者のデリダのいう「赦す力」について、わたしはこの間考えていた。謝罪を見届けてから赦すのではなく、赦しが先に立つのではないか。そうしてはじめてわたしたちは、過去の「真実」について、より自由に語ることができるのではないか。
(略)
韓国のナショナリズムを問題にするとき、韓国は被害国であるのだから日本と同列において批判するのは不当だ、という意見をよく耳にする。そのような意見は、まったく間違っているわけではない。しかし被害者のナショナリズムと加害者のナショナリズムとの違いは、紙一重ぐらいの差でしかない。なによりもそのような良心的な言葉は、ともすればこうむった被害をかざし続ける間に、被害者自身に目をつぶらさせる。ナショナリズムの無前提の許容は、そのなかにひそむ数々の矛盾――欲望と権力化と言葉による暴力に眼を塞がせ、免罪するのである。
さらに、それは結局のところ、被害者をそのままの状態に押しとどめてしまうことになりはしないか?被植民意識を払拭するためには、支配を受けた事実に派生する被害者としてのナショナリズムを、韓国みずからが俎上にのせる必要があるのではないか?いわば被害者としてのナショナリズムの呪縛から解き放たれるためにこそ自己批判は必要ではないか?「赦し」は被害者自身のためにこそ必要なのだ。怨恨と憤怒から、自由になって傷を受ける前の平和な状態にもどるために。
(239-240頁)
上記は汗がでるくらい真摯で強い、日本と韓国の間に向けられたまなざしである。これを読んだ日本人は、上野千鶴子のこの言葉を必ず噛みしめることが必要だ。
朴さんは、和解があるとすれば、それは被害者の側の赦しから始まる、と言う。それを言える特権は「被害者」の側にしかない。わたしたち日本の読者はそれにつけこんではならない。彼女の次の言葉をメッセージとして受け取る、日本の読者の責任は重いだろう。
「被害者の示すべき度量と、加害者の身につけるべき慎みが出会うとき、はじめて和解は可能になる。」上野千鶴子「あえて火中の栗を拾う」(同書、250-251頁)
被害者は決して、被害者になりたかったわけではない。そして、被害者にさせられた被害者は、赦すしかない、と考えるから、赦す。まさか、と思うが、この朴さんの記述を読んで、「韓国の責任を問う」理由ができたと喜ぶような、恥知らずな日本人がいないことを願うばかりだ。真に問われているのは加害者である日本である。
[追記]
いくつか、文章のおかしいところを修正しました。
*3:「慰安婦」と加害日本兵が恋愛関係になりえた可能性を抹消することへの批判もされている。これは重要で、慎重に考えるべき問題である。「もとよりそのような兵士がいたからといって、日本軍の加害性が相殺されるわけではない。また自己の体験についての安易な意味づけが、その関係に存在する支配関係を隠蔽することは多々あることである。しかし、たとえ「性暴力の被害者」であったとしても、そのことがただちにそこにあった「関係」を規定しうる決定的な決め手になるわけではない。かりに知識人女性がそのもてる知識で「それは恋愛ではない」としても、そしてそれが決して対等な関係でなかったとしても、当事者達が「恋愛関係」だと考えたのなら、それはやはり恋愛関係だったといえるだろう」(97頁)「慰安婦」だけに限らず、全ての性暴力が孕む問題である。そして朴さんが言うように、たとえ恋愛関係にあったとしても、そこで起きた暴力の被害は軽減しないし、加害者は免罪されないだろう。むしろ恋愛関係にあるからこそ、その関係性を利用した暴力は許されない。
*4:私(font-da)のデリダがいう「赦し」についての考えについては、はこちらを参照→http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070519/1179586075 http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070522/1179761897