新屋達之「検察・刑事訴追の課題」

 今月の「法律時報」に出ている新屋達之の論文が興味深かった。2007年の司法改革を批判的に論じている。新屋さんは、戦後改革以降の刑事手続きの当事者主義化、「検察の民主化」と「訴追の民主化」が未だ達成されていないことを指摘する。2007年の司法改革も、時代の要請に応える微調整とみなされ、検察・訴追の根本に立ち入った議論はなかったという。ここで、新屋さんは、戦後改革の完成こそが重要だと指摘する。

 近時、組織犯罪対策・被害者保護などさまざまな形で刑事手続きの「現代的」変容やパラダイム転換が説かれ、現にそのような立法も相次いでいる。そのような状況の中で、戦後改革の完成や警鐘を言うことには、疑問を投げかける向きも少なくないであろう。
 だが、体制の如何を問わず、およそ政治権力はマキャベリズムを本質とする。他方、刑事手続は、いかなる形態をとろうとも、またいかに正当なものであっても、政治権力による市民の権利の侵害・制限を伴う点で権力的・暴力的性格を伴う。かかる性格ゆえ、刑事手続は常に政治の渦中に巻き込まれる契機を有しており、政治権力と刑事司法の接点に立つ検察とその活動である刑事訴追も、政治性と権力性を帯びやすい。しかもここに、戦前との決別が意識的・無意識的に回避されてきたという、戦後日本政治の特殊事情が加わる。

(新屋達之「検察・刑事訴追の課題」『法律時報』79巻12号)、64ページ)

 検察を、市民的な観点から抑制することの重要性を、新谷さんは指摘する。そして、最も重要な課題は、法執行の適正さの確保・統制であるという。
 新谷さんは、被害者参加制度について、裁判所・検察官の裁量に委ねられ、被害者が訴追主体としての地位を認められた点を強調する。これは、裁判所・検察官に認められた範囲内で、被害者が司法参加できるということだ。つまり、国家訴追制度(検察官の起訴独占)の部分は、温存されている。「被害者と検察官が協力し合って、裁判をすすめます」というように、説明される点である。新屋さんは次のように述べる。

 また、裁量的参加制度であるだけに、検察官への影響も大きいように思われる。被害者が純粋な訴訟主体として独自の訴訟追行が可能であれば、被害者は検察官の意向を気にかける必要はない。逆に検察官も被害者を突き放してよい。ところが、裁量的参加では、被害者と検察官の相互の密接な意思疎通、検察官による被害者の意向の最大限の汲み上げが不可欠となる。さもないと、被害者は検察官の訴訟追行に満足できず、刑事司法への不信とそれに由来する自己破壊といういわゆる第二次・第三次被害を受けることになる。

(同上)

 もし、検察官は検察官の立場で、被害者は被害者の立場で二元的に訴訟主体としての地位を持っていれば、検察官は被害者代理を免除され、公共的な側面を強調することができる。そこで、公益に専念することができる。ところが2007年の司法改革では、検察官と被害者の意向をある程度まで一元化することを求められる。そこで、検察官が、これまで以上に、公的な観点より被害者の観点を強化することになるだろう。その行き過ぎをコントロールするための手段が必要だという。新屋さんは、それこそが「近代」の原点である戦後改革の完成であるとする。
 私も、大意としては賛同する。特に註での修復的司法への言及は重要だろう。

刑事的手段をインフォーマルな性格の強い修復的司法の理念と調和させることは、決して容易でないように思われる。修復的司法論の意図や意義を高く評価しうるとしても、それは打ち出の小槌ではない。(特に二〇〇七年改正が想定するような重大事件ではこのことがあてはまる)ことに留意する必要がある。

(66ページ)

司法関係者には、「これからは修復的司法の時代です」とスローガンを掲げる人が多い。私も、修復的司法には関心を持っている。しかし、私も、刑事司法の手続の適正化=修復的司法の導入、だとは全く思っていない。二つは並行して扱う、別の問題だ。特に、現行の刑事司法の手続における、容疑者の保護、加害者の保護はまだまだ途上である。被害者だけをかわいそうがって、権利や保障をあげましょう、という改革に目くらましされてはならない。私たちは誰もが被害者になりうる。そして、加害者にもなりうる。