日本における修復的司法の導入開始
web上で、以下のニュースが流れている。
補導少年、被害者と対話 警察庁が来月新制度 反省促す
警察庁は、万引きや傷害などで補導された少年が、被害者と対面し、自分が犯した行為や動機などについて説明する場を設ける新たな立ち直り支援策を導入する。加害者と被害者が向かい合うことで関係の回復や更生を図る手法は「修復的司法」と呼ばれ、家庭裁判所や少年事件に熱心な弁護士などが採り入れている。警察が正式に導入するのは初めてで、補導された少年に、自らの行為を自覚してもらい、反省と再起を促すのが狙いだ。
(http://www.asahi.com/national/update/0926/TKY200709260213.html)
前情報を手に入れていなかったので、どういう経緯で導入が決まったのか、全く知らない。修復的司法の本来的性質は、少年事件に絞って導入されるようなものではない。しかし、日本においては、家庭裁判所の調査官や、少年院の関係者、少年事件を扱う弁護士が中心に、修復的司法を紹介していたので、私はこの展開は予想していた。
それにしても、この新制度は、比較的軽微な犯罪をおかした、加害少年と被害者本人を対面させるもののようだ。もちろん、加害者が罪の意識をもつ、というのは修復的司法でも重要な成果とみなされている。だが、修復的司法に期待される役割は、それだけではないはずだ。
修復的司法では、二つの成果が目指される。一つは、事件によってもたらされた、肉体的・精神的・経済的なダメージの修復を、修復的司法を通じて模索することである。もう一つは、事件によって混乱した、被害者・加害者とその周辺のコミュニティーの関係性の修復することである。そして、この二つを遂行するプロセスで、当事者の納得のもとに、事件を終結させていく。
加害者の更正はもちろん目指されるべきではあるが、それだけを成果にかかげるには、修復的司法をあまりにも矮小化させている。また、更正した加害者をいかにコミュニティーが再度受け入れるのか、をさぐることも、修復的司法の中では重要な問題とされている。
もちろん、新制度が修復的司法の先駆けとして導入される事自体が、悪いわけではないが、これが修復的司法の全てではないことは、改めて確認しておきたい。また、新制度には、修復的司法の根幹である、「赦し」というコンセプトが無視されている。このイデオロギーを抜きに、修復的司法はありえるのだろうか。この新制度については、注意を払っていきたいと思う。
ついでに、web上で、宮台真司の修復的司法批判を目にした。
1)今時、重罰化を含む応報刑的措置に対抗してコミュニケーションによる回復(修復的司法)を賞揚することが国家権力への対抗(による社会の擁護や弱者の擁護)になるとする勘違いには、仰天しました。アナクロニズム(時代錯誤)です。
むしろ昨今では反動的司法学者が修復的司法を通じた国家の「内面的介入」を擁護し得ることが重大です。被害者が許していないことを理由に罪刑法定主義に違背して永久に閉じ込めておくことを可能にしようとするわけです。教育刑ファシズムの思考伝統に連なります。
今や素朴な修復的司法の賞揚は反動的であり得ます。因みにフリーター批判からニート批判への変化もまた単なる振舞い批判から内面批判への弧を描き、国家が内面改造に予算と人員を配置することも付言しておきましょう。宮台真司「明日の思想塾公開講座の参加者に参考資料を緊急にお知らせします」『MIYADAI.con Blog』(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=345)
宮台さんが、批判する上野千鶴子の本が、手元に無いので文脈が確認できない。確かに、修復的司法を国家として導入しているケースは、いくつかある。たとえば、ニュージーランドでは、日本と似た形で、少年の更生を目指す趣が強いようだ。しかし、修復的司法は、必ずしも、国家主導で行う必要はない。アメリカのミネソタ大学を拠点にした、アンブライト(有名な修復的司法の実践家)のセンターも、民営だったはずだ。また、フィンランドのように、国家が出資し、あくまでも市民が運営するスタイルをとる場合もある。(ただし、フィンランドの場合は、体制化したという批判が出ている)
何がともあれ、修復的司法を推進することと、国家の内面的介入を直結させるのは早計だろう。危惧は大事だし、私自身、新制度に対しては不安をもっている。また、多くの国家で内面的介入に結果的になっていることも、予感している。それでも、修復的司法をアナクロニズムと切り捨てるのは、ナンセンスだと思う。