救命ボート問題と姥捨山問題

エントリ「マーティン・コーエン『倫理問題101問』」のコメント欄で、kanjinaiさんが次のように書かれている。

この本で例示されている「救命ボート」問題と、私が提案した「姥捨山問題」は、決定的に異なっています。救命ボートでは、一人を乗せると全員が沈んでしまいますが、姥捨山問題では、一人を乗せても沈みません。ただ生きる状況が苦しくなるだけです。

その通りだと思う。むしろ私がこの本を小出しにしながらその行間に含めた意味というのは、「救命ボート問題になる状況というのは、現実にはほとんどないだろう」ということだ。たとえば、(それぞれに悪名高い)「自立支援法」が施行されても、施行された翌日に障害者が全員死ぬとか、ホームレスが全員死ぬとかいうことではない。むしろ、事態は姥捨山問題に近いはずだ。私の前エントリでは、「極限の状態というのは本当はそうあるわけではないのに、それを「ジレンマ」と称して、考えた振りをし、さらにはその結果を正当化しようとすることが倫理学の役目である」という考えを批判している。だから、私の言いたいことというのは、t-hirosakaさんのご意見に近い。t-hirosakaさんも言われるように、「個人にはどうにも出来ないように思える場面や経験もあるだろう」。ならば、それはただ単に「どうしようもない」だけではないのだろうか。
これは、倫理を諦念することを帰結するのか。そうではない。むしろ、この「他人を見殺しにすることのどうしようもなさ」じたいを(未来に向かって)減らしていくことこそ、私は倫理学の可能性なのだと言いたい。「いま」苦しんでいる者に対して、倫理学にできることがほとんどないにしても――いや、私はほとんどないと思っているが。それを「何かができる」などと思い上がるな!――、それでも諦念しないのは、そこに理由があるのだ。つまるところは、現状の姥捨山問題はほんとうにどうしようもないものかもしれない。しかし、だからといって、放っておくのは倫理の完全な敗北を意味する。『無痛文明論』が主張した、「無痛文明に完全に敗北しないためにこそ、私たちは負け続けなければならない」という意味内容を、私は次のように受け取ろうと思う。すなわち、倫理は「いま、ここにおける」現状を変えることはできない。ここにおいて、どのようなロマンティシズムも有害である。その意味において、倫理は現状に対して諦念しなければならない。しかし、これまでがそうであったように、ゆっくりではあるが、倫理は「未来」を変えることならできる。さまざまな人権運動、平和運動が遅々として勝ち取ってきたものたち。これらは明らかに「他者とともに生きる」ことを倫理としながら、数十年単位で勝ち取ってきたものである。それらはときに「現実的でない」と批判されたりもする*1。しかしそれは批判になっていない。倫理そのものは、現実的であるかないかに関わらず定立し得るものだからである。それが「現実的でない」から諦念すべきなのではない。倫理が「現実的なるもの」を意味するならば、それはもはや倫理の頽落ではないのか。その意味で、「現実にどう対応していくか」は、重要な問題ではあるが、それは倫理の問題ではない、そのように私は考えている。

*1:この間の憲法「改正」論議がそれを如実に物語っている。