英語の支配の件

北海道大学の国際集会で感じたことがある。いま、応用倫理関連の共通語は英語である。だから私もずっと英語の勉強は続けている。また英語が共通語になっているおかげで、学会に来ていた欧州や台湾やアフリカの人たちともコミュニケーションできるというのはすばらしいことである。

が、同時に、英語帝国主義の問題はやはり避けては通れないという思いも強い。まず、英語が会議の言語なので、まず米国らの英語ネイティブの人たちの話す英語があまりにもスピードが速く、非ネイティブには着いていくのがやっとである。その結果、どういうことになるかというと、議論の基本的な方向性が米国人を中心とする英語ネイティブの人々によって決定されてしまうのである。また、彼らの英語が分からないときに、彼らがそれを言い直すということは、こちらがあえて尋ねないかぎり起きない。そして私の経験上、米国から来ている学者の多くは、自分の英語にまわりが合わせて当然、という暗黙の態度でしゃべる。(まれにその点に非常に気配りする人もいるが)。非ネイティブの人は、自分の言いたいことを、非常にシンプルな英語でしか表現できない。それに対して、ネイティブの人は、複雑なことをそのまま複雑な英語でしゃべる。その結果として、議論のベースはネイティブによって設定されていくのである。このことは、会議に出席していた日本人からも訴えられた(私は司会をしていたので)。

これは基本的に、英語を第二言語とするわれわれが考えるべき問題ではなくて、英語ネイティブの彼らが考えるべき問題である。だが、そういうことはほとんど起きない。英語がしゃべれて、そして英語で複雑なことが言えて当然、という設定がなされている空間では、そういうことは起きないのである。だが、今度私が司会をする機会があったら、ネイティブの人は簡単な英語でゆっくりしゃべってくださいと言うことにしよう。(どこまでの効果があるかわからんが。ただ、以前に筑波大であった会合のときは司会者の外国人がそういうことを最初に言ってくれてとても気持ちよかった)。

そういえば、ある分科会で、白人男性の司会者が、北大の大学院生の発表者を紹介するときに、「He is a local boy」と言っていたが、これは聞いていて不快だった。ここの大学院生の男の子というくらいの意味だろうが、知り合いでもないのに、こういう見下すニュアンス(boy)はいただけない。それとも、この英語にはそういうニュアンスはゼロなんでしょうかね? (ジーニアス英和辞典には「かつて黒人男性を侮蔑的にboyと呼んだことから,黒人に対して用いるのは軽蔑(べつ)的」とある)