「当事者」と倫理の発露

極限状態論に関する、kanjinaiさんによる整理だが、少なくとも私の部分に関してはこれでいいように思う。再掲しよう。

救命ボートの例や、姥捨山問題の例について、
x0000000000さん:
このような極限状況においては「倫理」は問えない、答えられない、選択できない。
極限状況でなされる行為は、せいぜい処世術である。
真の「倫理」は、こうした極限状況が起きないようにしていく行為として現われるはずだ。極限状況を減らしていくことが「倫理」だ。「倫理」は(極限状況のような)いまここの現実を変えられない。「倫理」は未来に関わる。

(ちなみに、お分かりのように私は、「処世術」という語を決して悪い意味で使ってはいない)
丁寧に論点を確認しながら見ていこう。

この人には倫理を問い、この人には問わないという選別をどうやってするのだろうか?
結論から言えば、そんなことはできない。(http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070520/1179591714

そうなのだろうか? 私たちは、現実には問うてしまっているのではないのか。「選別をどうやってする」には、2つの意味があるように思われる。1つは、選別をする根拠で、もう1つは、選別を実際にしてしまっているということである。font-daさんは、この2つを混乱しているように思える。「選別の根拠などない」という主張には同意できるが、だからといって私たちが実際に選別をしてしまっているということは、実際に確認できる事実である。font-daさんは、「極限状態の人の「どうしようもなさ」を責めることはできないだろう」とも述べている(http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070521/1179757828)が、そうなのだろう、と思う。ここにおいて、私たちは「責めることはできない」と判断してしまっているのだ。
私は以前「当事者性の再検討」という論文で、「当事者の語りこそが正しいというわけではないが、それにはいかんともしがたい<重み>が存在する」と論じた。ここにきて、拙論ではあいまいであった「<重み>」を、少しは言語化できるのではないか。すなわち、「当事者の語り」*1がもつ「<重さ>」とは、当事者ではない者たちに向かって、未来を変えようとする発露、その原型なのではないだろうか。そして、当事者ではない者が実際に突き動かされた例を、私たちは挙げることができる。『生命学に何ができるか―脳死・フェミニズム・優生思想』は、明らかに田中美津と青い芝の会のメンバーの語り、その存在に打ちひしがれ、突き動かされた産物である*2。いま捨て置かれている「当事者」を何とかしろという叫びは、残念ながら達成されることはないだろう。私はこの意味において「倫理」は諦念せざるを得ないと考えている。しかし、「当事者」の声や存在は、未来を変える可能性がある。もちろん、だからといって、「当事者」に語る責任があるわけではない。けれども、「いまここに苦しむ者がいる」ということを描写し、社会に問うていくことは、原理的には描写能力がある者であれば、言語で、音楽で、あるいは身体で表現していくことが可能なはずである。確かに、そんなことをしてよいということを保障してくれる根拠はない。逆に言えば、誰がそのようなことをしてよいという特権を与えることができるのか。それでも、「語れないような、ゴロンとしている当事者」の存在を、社会にあらわにしていくことは、むしろ「当事者」ではないものにこそ問われる倫理なのではないのか。「「仕方ない」と割り切れないからこそ、倫理は必要とされる」(http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070521/1179757828)について、その状況で割り切れないと思うのは、「当事者」ではない者たちではないのか*3。むしろ「当事者」は、追い込まれた状況の中では、選択も何もしようがなかったのではないか。または、選択したと言えてもそれは形式だけで、実際には「適応的選好」にしたがって選択しただけではないのか。

*1:私自身は、「語り/語れなさ」と「存在」とは不可分な関係にあると考えるが、これにはもう少し言葉を費やさねばならない。

*2:もちろん、「当事者」の声に応答しないことを選ぶこともできる。しかし、応答しないことを選んだ者は、それによって生じる論理的な帰結――すなわち、「当事者」を排除するということ――をも受け入れるべきである。応答しないが、「当事者」を見捨てていませんと言うのは、論理的な矛盾である。

*3:もちろん、「割り切れない」と思う「当事者」ではない者たちは、「当事者」によって突き動かされた者たちであろう。上の註も参考。