長谷部恭男「日本国民、カモーン!」
「UP」(東京大学出版会)の6月号をぱらぱら読んでいると、テンションの高い題名の文章があったので、読んだ。長谷部さんは、ロンドンのおもちゃ屋で、異様にリアルなヘビのパペットをみつける。
筆者は、東京コミックショウの「レッド・スネイク・カモーン!」というギャグ*1について、傍らの配偶者に手短に説明した上で、このヘビの人形を入手して「ボア・コンストリクター*2、カモーン!」というとテーブルの下からこいつが鎌首をもたげるというギャグをやりたい(何処で?)という希望を申し伝えたのだが、「ギャグにならないでしょ。見てる人の心臓が止まったらどうするの?!」と即座に棄却された。たしかに、あまりにもリアルで、夜中にトイレに赴く途中の廊下で踏んづけたりするのは御免被りたい感じの代物である。(23頁)
「なんの話や?」という出だしであるが、長谷部さんは、本来、言語が理解不可能であるはずの、ヘビのおもちゃが、パペットとして後ろから操られて、まるで「呼びかけ」に答えているようにみえる構造と、憲法の「われら日本国民(We, the Japanese People)は、国会における代表者を通じて行動し、この憲法を確定する」という一文の構造を重ね合わせていく。憲法の制定過程で、「誰が、その憲法を確定する、国民なのか」は、事後的に憲法が実践されていく中で遡及的に明らかになるため、「呼びかけ」ているときに対象が確定されないことに問題はないという。
それで別に困ることはない。憲法は、現に実施され、人々が従っている限りにおいて、はじめて憲法だからである。ボア・コンストリクターは、生まれた時点で、すでにそれが本当のボア・コンストリクターであるかを判断することができるが、憲法が「本当の憲法」であるかどうかは、生まれた時点では分からない。大多数の人々、とくに公務員や裁判官等の法の解釈・執行に関わる人々の多くが、それを憲法として認め、それに従って行動するようになったとき、はじめて「なるほど、これが憲法だ」ということが判明する。その時点からさかのぼると、「あれが憲法の制定だったのか」ということもはじめて分かる。(26頁)
もちろん、これは「押しつけ憲法から、私たちへの憲法へ」と一大スローガンをはる憲法改正論議への批判も含まれているのだろう。そして、長谷部さんはこの文章を、次のような改正論議への暗喩による皮肉でしめる。
憲法制定権者への「日本国民、カモーン!」という呼びかけも、「レッド・スネイク、カモーン!」と少なくとも同じくらい不適切な発言なのだが、誰も可笑しいとは思わないようである。とはいえ、「日本国民」が本当に出現したら(そんなものが存在するかどうかは別として)、観客も笑っているわけにはいかないだろう。とくに、それがうしろから手をつっこまれているような「日本国民」であれば。
(27頁)
私はエンデの「はてしない物語」の表紙のヘビを思い浮かべました。
*1:昭和30年代のギャグ・・・らしい。←あたし生まれたの50年代ですんで。検索してみたら、動画がみれるみたいです。http://gameads.gamepressure.com/tv_game_commercial.asp?ID=2529 私のPCは動画が動かない(ぼろいから)ので、内容は確認できませんでしたが。
*2:絞め殺すヘビ。鮮やかな色と、巨体を持つ。ウィキペディアに詳しい解説が。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC