イビチャ・オシムさんの宗教観

オシムが語る

オシムが語る

 サッカー日本代表監督イビチャ・オシムさんのインタビュー記録『オシムが語る』を読んだ。原著のタイトルは Ivica Osim: Die Welt ist alles was der Ball ist, 2002(『イビチャ・オシム ボールの中に世界はある』)。ヴィトゲンシュタイン論理哲学論考』の命題 "Die Welt ist alles was der Fall ist." の変奏だ。

 原著の刊行時にオーストリアのシュトルム・グラーツを率いていたオシムさんは、二人のオーストリア人ジャーナリストに、政治、経済、監督業、サッカー、ジャーナリズムについて縦横無尽に語っている。発言のなかで興味を引かれたのは、みずからの宗教観に言及した第五章「オシム、宗教とテロを語る」だ。

「信仰のない人生のほうが辛い道になることは間違いない。でも、実をいえば、私は無神論者だ。生まれはムスリムだが、うちの家族は信心深くなかったからね。父はムスリムだったが、それ以上にパルチザンだった。母は主婦だったけれど、それ以上に社会主義者だった。だから、私は実質的には、無神論者の家に生まれついたということなのだろう」(122頁)

 オシムさんは「無神論者」を自称している。

「みんな平穏に肩を寄せ合って暮らしていた。子どもの頃をよく覚えているよ。どの宗教の祭りも一緒に祝ったものだ。何か宗教の祝い事があれば、必ずクッキーを焼いてもらえる。同じ日に祭りが重なることはないというのがラッキーだったな」(122−3頁)

 オシムさんが1941年に生まれたサラエボは、主としてセルビア系(セルビア正教会)、クロアチア系(ローマ・カトリック)、ボシャニャク系(イスラム教)の住民からなる都市である。
 サラエボ市民はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時に激しい民族対立を経験したが、オシムさんが子供の頃には、異なる宗教を持つ住民は平和に共存していたらしい。「同じ日に祭りが重なることはない」というのは、教会歴が違うということだろう。セルビア正教カトリックでは、クリスマスの日が違う(セルビア正教はユリウス歴を採用している。クリスマスは1月7日)。

 多文化、多宗教の故郷さ。何を信仰しようと問題はなかった。セルビア正教カトリックユダヤ教イスラム教。どんな宗教だろうと、民族がどうあろうと、みんなうまくやっていた。多様な文化を持つさまざまな人々がこぢんまりと我が家を構えて暮らしていたんだ。言うなればコロニーだ。今は昔の話だがね。私たち子どもは通りで遊んだ。あの地域には社会的格差なんていうものもなかった。貧しいのは皆同じ、というわけだ。(19頁)

 無神論者だからと言って、オシムさんは宗教全般に敵意を持っているわけではない。ムスリムの生まれであるあなたはイスラム教に共感しているのではないかという問いに、こう答えている。

「私の場合、正直、社交術の域を出ないね。
ボスニアイスラムについては、チロル人がカトリックを、アメリカ人がモルモン教を知っている程度には承知している。それに、イスラムには、ルールを作りたがる非民主的な首脳部がない。それもまた、この宗教にそれほど共感を抱けずにいる理由かもしれない。
 カトリックプロパガンダは、もともと裕福な世界の人々から発せられている。もともと人生を楽しんでいる身分でいながら、天国はもっとすばらしいところだと説く。キリスト教徒にはとても立派な教会があるし、クリスマスには何百万ユーロも、何百万ドルもプレゼントを買うわけだからね。
 もちろんカトリックにも恵まれていない人たちはいる。しかし、そういう人たちにも宗教はちゃんと、希望と逃げ道を与えてくれる。希望も逃げ道もなしで人生を送るのは、とても辛いことだ。
 しかし、無神論者は、人生のこの辛い方の道を行こうと決心したリアリストだ。」(127頁)

 宗教に対する距離の取り方、醒めた見方が印象的だ。

「もうひとつ宗教のことで言いたいことがある。
宗教には例外なく限界がある。そこを政治がうまく利用する。これは何も過去の話ではなく、現代でもそうだ。
 政治家が教会を必要とするのは宗教を利用したいからだ。一方、教会は教会で信者を操作してはいるがね。たぶん、彼らには政教分離の理念なんて、どうでもいいんだろう。トマス・ホッブスからシャルル・モンテスキューに至るまで、啓蒙運動は近代国家論に繋がる重要なステップのひとつだったのに……。
 今でも、政治と教会の間には、旧態依然として、ゆがんだ協力関係がある。宗教がみな、社会と政治に大きな影響力を持っているというのは厳然たる事実だ。カトリック政教分離の原則を公的には採用しているが、イスラムにはそもそも政教分離という考え方がない。福音教会でも政治と宗教の境はあまりはっきりしていない。最近ではイスラムでも分離しようという動きはあるけれど、だからといって、日々、肌で感じられるような大きな違いが出てくるとは思えない」(127−8頁)

 過度に政治化した宗教は、人々の対立や闘争を煽り、人々を分断させる道具になる。ボスニア紛争の時には、セルビア正教カトリックイスラム教という宗教の違いが対立をこじらせる原因になった。そうした歴史の証人であるオシムさんは、政治化した宗教のあり方に批判的であるようだ。