『思想』1000号記念・続き

『思想』1000号記念特集の座談会「思想の100年をたどる(1)」で、佐藤卓己苅部直、米谷匡が鼎談している。そのなかで戦前戦中の時期の『思想』や隣接雑誌について語っているところがおもしろい。

林達夫は、読み手に「哲学的公衆」が登場し、哲学者が現実の諸問題について発言するようになったことを評価していたが、すぐに、その哲学的公衆に愛想をつかしたという。

以下、苅部直の発言。

小林[秀雄]と林[達夫]は、対立していたと同時に、同じような批判を哲学者たちに向けてもいた。小林も「学者と官僚」の中で、「確実に実証的な材料を研究してゐる学者」と「言葉によって広く人生を論じたり研究したりする学者」とを区別して、問題は後者にあると言っています。彼らが「学会を出て、世間の風に吹かれたいと思つて」、『思想』も含む一般人向けの雑誌で、やたらに活躍したがるところがいけない。
 つまり、林と小林が見ていたのは、大衆化の進行とともに、知識人の側もまた、その言説の質が浅薄になってゆくという病理です。(33〜34頁)

何だか、言論統制の有無のちがいはあれ、いまのジャーナリズムでの、「格差」論とか憲法改正論議についても言えそうですが(笑)、いわゆる知識人の戦争協力には、そういう要因も確実になったでしょう。(34頁)

いわゆる「知識人」は1970年代で退場した。その後、ニューアカという潮流が来て、学者が一般雑誌でふつうに発言するようになり、学者の権威はガタ落ちになって、現在に至る。アカデミズムか、大衆への迎合かというのは、意味のある二項対立ではない、というのが正しい考え方なんだろうけど、たしかにそういう分裂を自分の中にもかかえている実感が私にはある。小林秀雄マックス・ウェーバーを参照していたのだろうけど、この問題は永遠の課題だと思う。しかし、引用部分の「(笑)」は、何?