バージニア工科大学事件と「移民」

現代思想』2007年6月号に、山本薫子さんの「ディアスポラの子どもたち」が掲載されている。テーマは日本にいるブラジル移民だが、枕として、バージニア工科大学事件の容疑者のことが書かれている。彼は、韓国からの移民だったのだが、その点は、事件発生時以降は、米国メディアでは強調されなくなった。

32人を銃で射殺した殺人犯はたまたま移民の子どもだっただけであり、ただそれだけだ。(240頁)

しかしその結果として、彼は米国において居場所を奪われることになったと山本さんは言う。

結局、「彼」は誰だったのか。何者として死んでいったのだろうか。
皮肉なことに、アメリカン・ドリームと「今よりもよい暮らし」を願って少年時代に後にした母国からは「同じ韓国人」と見なされるいっぽうで、人生の半分以上を過ごした米国では、同胞から切り捨てられ、アメリカのメディア報道では国籍や民族に関する詳細が省かれた、所属のない個人、モンスターとして扱われた。生前の「彼」は友人も少なく、韓国人コミュニティとも距離を置き、居場所のない学生生活を送っていたが、結局、「彼」はその死後もついに居場所を得ることはできなかった。(241頁)

PCが強調されたが故にエスニシティが剥奪され、のっぺらぼうの、特性のない男として処理され切ってしまったということか。米国での議論を私はフォローしてないので、山本さんのまとめで良いのかどうか、いまいちよく分からない。が、問題提起としては、考えさせられるものがあった。『タクシー・ドライバー』のトラヴィスを再度、思い起こしてしまった。