土井健司『キリスト教を問いなおす』読書中

キリスト教を問いなおす (ちくま新書)

キリスト教を問いなおす (ちくま新書)

土井さんの、この本をちびちびと読んでいる。土井さんはキリスト教神学者であり、最近では生命倫理問題でも発言している(ちなみに土井さんは私に対しては批判的)。この本の最初で、キリスト教は十字軍や魔女裁判などで多くの人の命を殺戮した宗教ではないのかという疑問に正面から答えようとしている。そして、「キリスト教」と「キリスト教を信じているという人」を分けようと提案する。

まず単純に考えてみましょう。たとえば凶暴な性格の人がいて、その人がたまたまキリスト教を信じていたとします。その人がキリスト教の悪口を言った他人を殴り倒したとすると、その人はキリスト教徒であるからそうしたのか、それとも凶暴な性格であるからそうしたのか。確かにその人は、キリスト教を信仰しているからこそ、キリスト教の悪口に耐えられなかったと言えます。しかし、相手を殴り倒したのはその人が凶暴な性格をしていたからでしょう。そのような人は、もし別の宗教を信仰していれば、その宗教の悪口を言った人に暴行を加えていたことでしょう。この場合、宗教が悪いのか、その人が悪いのか、いずれでしょうか。キリスト教が隣人を愛するように教えている以上、その教えを顧みずに暴力を働いたとすれば、いくら信仰心からであったとしても、やはりその人が悪いのではないでしょうか。(34頁)

すなわち、暴力や殺戮があったとしたら、それはそれを働いた「個人」が悪いのであって、その個人が信仰していた「キリスト教」が悪いとは言えないというのである。土井さんの思索の根本の筋は、ここにあるようだ。

これと同じ構造といえば、「銃」が悪いのではなくて、それを悪用する「個人」が悪いのである、というものがあるだろう。「核兵器」や「原発」についても同じである。銃や核兵器キリスト教を一緒にしないでほしい、キリスト教は魂を救うものであるから、という反論もあるだろう。だが、銃や核兵器であっても、社会の安全を守り、国家の安全を守るのに役立っている(警察が銃を持てなかったらどうなるか?)とも言える。

この種の理屈は、いったいどこまで妥当なのだろうか。

土井さん個人は、次のような信条を表明している。

(1)イエスを信じる者は戦争、紛争など暴力に与らない。
(2)戦争、紛争など暴力に対しては、キリスト教の立場から反対を唱える。なかでも、キリスト教が社会をまとめる力となって暴力が生み出される場合には、反対しなければならない。(57頁)

これに対しては、まさにそうであってほしいと願うし、私も文句なく賛同したい。

それと同時に思うのは、土井さん個人のことを超えて、キリスト教社会一般の問題として、キリスト教の名のもとに戦争肯定する人々がいるのはどういうことか? そしてそれに賛同する信者たちがたくさんいるのはどういうことか? という疑問は残されたままである。たとえば、911の直後、アフガン侵攻に明瞭に反対した米国のキリスト教団は少なかった(クェーカーは貴重な例外である)。もし米国の教会勢力が団結してアフガニスタンタリバンへの「報復戦争」に反対していたら、ブッシュ政権はけっして戦争することはなかっただろう。(あの時期、メガチャーチは何をしていたのか)。あの時期の米国の教会勢力に、「右の頬を打たれたら、左の頬を」というイエスの精神は存在していたのだろうか。米国のキリスト者たちは、「イエスの名において」米国の教会勢力に対して、アフガン戦争を阻止するように全力で働きかけるべきではなかっただろうか。もちろん教団内部においては様々な議論があったことだろう。だが、本来ならばそれらの議論を突き抜けて、「イエスの言葉」のもとに、「報復戦争」を止めさせるために立ちあがるべきではなかったのだろうか。そのことについて、いくら神学的・教義学的議論を持ち出されても、教会のサークルの外側にいる一般市民の心には届かない。

私は、あの時期に米国のキリスト教勢力がそういうふうに動けなかったというまさにその点に、「宗教教団」というものの、動かし難い難点があるのではないかと思っている。これはキリスト教に限らず、ほとんどすべての巨大教団宗教に当てはまることだと思う。

追記:土井さんは、社会をまとめる力としてキリスト教が働く場合には、それに反対しなければならないと言っている。それに加えて、なぜ、キリスト教がそのように働くことがあるのか、911のときにはなぜキリスト教団は総体として報復に反対行動できなかったのかという点の解明をすることも必要だろう。