「加担する」とは何をすることなのか

先のエントリーで、「「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか」と問いかけた。

それに対して、次の3つの意見がみなさんより出てきた。

(1) 加担したと言える。
(2) 加担したとは言えない
(3) よく分からない(加担したと言われればそういう気がするが、・・・)

私自身は、(1)の「加担したと言える」という意見を持っている。アフガニスタンまで行く前に、まず目の前での出来事でどうなのかを確認し、そこから階段を上っていこうと思ったわけだ。だが、「加担したとは言えない」という声が実際に上がるとは想定していなかったのは、私の甘さであろう。

なので、さらなる迂回路を通ることになるが、このケース(再掲する)で、「加担したとは言えない」ということが、ほんとうに言えるのかどうかを検討しないといけない。

寒い夜、道を歩いていると、ホームレスの人が道ばたで倒れていた。私は警察を呼ぶこともせず、救急車を呼ぶこともせず、黙ってそこを通り過ぎた。夜でもあり、人気は少なかった。

この場合、「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか。

「加担したとは言えない」とする理屈として、

理屈1
私が黙殺したことによって、そのホームレスの人の寿命や健康状態が短縮・悪化したかどうかは確定できない。ただ寝ていただけかもしれない。寒さにとても強い人かもしれない。云々。だから、「加担した」とは確言できない。

理屈2
通行人には、救助する作為義務はない。(勤務中の警察官等にはおそらくある)。作為義務違反がない場合は、「加担した」と言うべきではない。

これらに対して、もし理屈1が言えるというのなら、じゃあ、いったいどういうケースなら「加担した」と確言できることになるのか? 目の前で死に至るのをじっと見続けていた場合とかか? 目の前でその人が死に行くことを確認して黙殺するケース以外では、「加担した」と確言できない、ということになるのだろうか。

もし理屈2が言えるというのなら、目の前でその人が死に行くことを確認して黙殺する通行人もまた「加担した」とは言えない、ということになるのだろうか。加担したことになるのは、救助義務、通報義務が法的にあるとされている人のみである、と。

ひとつ議論すべきは、「加担とはそもそも何か」という点。「責任」論に行く前に、「加担」論が必要か。倫理的次元と法的次元の腑分けも含めて。(これはアフガニスタン・ケースでも言えることかもしれない)

こういう仔細な議論を喜々としてするのって、学者の空論じゃないか、という違和感をもつ人も多いよね。こんな議論を積み重ねることが必要なのではなくて、「そこに人が倒れていたら、すぐに助けられるようにしていく」ことが真に大事なことだろう!、と。私もその意見に賛同します。そのうえで、実は、両方とも必要と言っていきたい。

亀の歩みのように進んで行こう。(途中で冬眠するかも、というか、きっとする。あとブックマークコメントは、「座布団一枚!」的な芸のあるもの以外は、基本的にネタ・釣りとして費消していきますのでよろしくです。)