香西豊子『流通する人体』と膨大な言葉

流通する「人体」―献体・献血・臓器提供の歴史

流通する「人体」―献体・献血・臓器提供の歴史

訳あって、この本を読んだ。著者は、1973年生まれだから若い世代の研究者である。この本では、献体や、献血や、臓器提供や、人体標本展などを例にとって、人体(の一部)のドネーションという社会行為が、明治期以降、日本でどのように変遷してきたのか、そしてそれをめぐる言説配置がどのようにシフトしてきたのかを、文献を丹念に読んで調べたものだ。その労力には拍手を送りたいし、著者の今後の研究活動にも期待したい。

そのうえで、言いたいことがあるのだが、著者は、この歴史を「本人の意志」というキーワードを使って再編成してみせている。だが私から見ればそれは中途半端だ。なぜなら、「本人の意志(意思)」をめぐるこのダイナミックな言説史の終着点とも言える、1983年から1997年までの臓器移植法の成立について、著者は触れるのを避けているからである。まさに臓器移植法こそ、世界にもまれに見る、人体のドネーションにおける「本人の意志原則」が重視された法律であり、著者のアプローチを取るとすれば、ここにこそ、いちばん「おいしい素材」がごろごろしているはずだからである。その素材を、著者も触れているような角膜移植法とか、角腎法とか、献体法とかとの接続で見ていくというのが、グルメではないだろうか。

著者曰く、

 この角膜移植法の下で整備された諸制度が、1990年代後半には、臓器移植一般に対応するものへと組み替えられていったのは、周知の通りである。そして、その際には、角膜移植法の制定時から長く保留にされてきた、「死」の判定の問題、および提供を決定づける「意志」の問題に決着が迫られ、膨大な言葉が繰り出された。
 これに関しては、それこそまた膨大な研究報告があるため、本書では立ち入るのを差し控えることにする。(197頁)

そこ、差し控えたら、あかんって。そこがいちばんおいしいんやから。研究者やったら、その「膨大な言葉」に萌えなあかんって。