河野哲也「善悪は実在するか」

 先日、友人の結婚式に出席してきた。新婦から、両親への挨拶で、彼女は泣きながら「私は父に叱られてばかりでした。そんな父をうとましく思ったこともありました。でも、今は、あれが本当の優しさだったと思います。お父さんありがとう。」と述べていた。高校時代に、彼女の父親との葛藤の相談を受けていた、私たち友人一同は、ハンカチを握って感動で涙をこぼした。
 一方で、成人してから、父親が自分に行ったしつけが虐待だったと気づくこともある。あのときは、父は自分のために叱ってくれていると思っていたが、実はそのことにより、自分の中に別の問題が生じていることに、後から気づくのである。
 両者は、当時に話を聞けば、「父親に叱られて、辛い。父親が怖い」と述べるだろう。しかし、数年後、両者はまったく別の過去の振り返り方をしている。前者ならば、父親の行ったことは、子どもに利益になっただろうし、後者ならば不利益になっただろう。また、さらに10年後、両者が入れ替わって逆の振り返り方をすることもある。そして、たいていの場合、私たちは親に対して、両者が混ざり合った感情を持っている。「お父さんありがとう。しかし、父は、叱り方が下手だったせいで、私の人生に悪影響も与えた」という具合に。

善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学 (講談社選書メチエ)

善悪は実在するか アフォーダンスの倫理学 (講談社選書メチエ)

 さて、河野哲也「善悪は実在するか」を読み始めた。私はこの手の議論が苦手だ。途中まで論理展開はわかるのだが、実際に例を挙げて説明されると「ええっ?」となる。河野さんは、セクハラにおける、善悪について以下のように述べる。

出来事と行為の実在

 実在とは、主観(こころ)から独立したもののことである。ある行為がセクハラかどうか、したがって悪しき行為かどうかは、その行為を行った者の、主観(判断)からは独立である。その意味で、その行為のセクハラ性は実在している。こうしたタイプの主張は、先に説明した自然主義実在論とも、反自然主義実在論とも異なるだろう。私の立場は、出来事と行為の実在論から導き出されている。
 だが、以上の議論に対して、「当人としては単純な友情の表現としての身体への接触が、触れられたほうにとって性的に不愉快である場合がある。この場合、行為者はその相手の不愉快に気づかなかっただけであってセクハラとは言えないのではないか。したがって、相手への影響のみをもって道徳的性質を定めるのは無理があるのではないか」という反論もありえるだろう。
 たしかにこうしたことは起こりうるだろう。「悪」という言葉の定義にはやや揺らぎがある。相手に害を及ぼしたならそれだけで意図的か否かを問わず、その行為は「悪しき」行為なのだと言うことも可能である。しかし一般的には、行為者がその害を認知していたか否か、つまり意図的か否かが、その行為にとって重要だと考えられているだろう。たとえば、セクシャルハラスメントを受けたと感じた場合には、一度、その相手に警告や断りを告げておけばよいだろう。すると善意の人ならばその行為を以降は止めるはずだし、それでもなおその行為を続ける人は明らかに意図的であり、それは悪しき行為である。
 ある行為が悪(あるいは善)であるか否かには、行為者の意図性という心的な性質が関係していると言ってもよい。しかし行為者の心理が絡んでいても、そのことは、その行為の善悪を判断することからは独立している。たとえば、相手が嫌がっているのに意図的に繰り返しているセクハラ行為は、それを悪と道徳判断する人がいてもいなくても、被害者の訴えと加害者の意図性によって悪と定まる。まtそのセクハラを第三者が誤って善と判断しても、その判断が誤りであることは、被害者からの聴取と加害者の意図性から明らかになる。したがって、ある行為の善悪は判断主観から独立しているのであり、この意味で善悪は実在しているのである。
(101ページ)

この理屈で言うと、被害者が「いやだ」と言ったかどうかが、セクハラかどうかの争点になるだろう。これまでもセクハラ裁判は、この問題について争っていたし、これからもそうだろう。
 しかし、セクハラの加害者・被害者に話を聞いていくと、問題はそう簡単でないことがわかってくる。たいてい、加害者は「いやだ、という気持ちが私には伝わらなかった」と主張するからだ。また、被害者の多くは、抵抗するのが怖くて、「いやだ」といえないからだ。
 さらに、冒頭の私の話の問題が加わってくる。一部の被害者は、そのときは「いやだ」と思っていなかったが、あとから「いやだ」と思う。そして、「なぜ、あのとき、『いやだ』と思えなかったのか」と自分を責める。人間は、極限状況に陥ると、自分のこころを守るために、防衛反応で「いやだ」とすら思えないことがある。逆に、そのときは確かに「いやだ」と思っていたのに、時間がたつにつれて「私は本当に『いやだ』と思っていたのだろうか。思っていれば、もっと抵抗できたのではないか」と悩み始めることもある。
 このこころの揺れは、当然のものだ。人間は、環境や時間の変化、気持ちの状態や性格によって、できごとを様々な心理で表現する。これこそが主観だろう。
 河野さんの主張のポイントは、ものごとが起きている、そのときの主観を疑わないことにある。河野さんはこの点について、こう述べる。

 では、道徳的性質が問題となるときの利益と不利益についてはどうだろうか。これをどう判断するのか。ひとつの方法としては、行為の影響を受ける人に直接聞くというやり方がある。現代の常識としては、行為者にはそのつもりはなくても、相手が深いと受け止めればすべてセクシャルハラスメントだとされている。ある行為が不快であるかどうかは、無関与な第三者が一般的な命題として決めたりすることはできないし、ましてやセクハラした当人が決めるべきことではない。したがって、不利益がすなわち不快の不快のことであるならば、道徳的性質は行為の影響を受ける人の主観によって完全に決定されることになる。
 こう考えるならば、面白いことに、道徳的性質は行為の影響を受ける人の個人主観で決定されることになり、個人主観主義が正しいことになる。個人主観主義は、行為者の立場において唱えられたときには独善的に思われるが、行為の影響を受ける側の観点から唱えられた場合には、正当な要求となるのである。
(102ページ)

別に、面白くともなんともない。これは、被害者が、自分が「いやだ」と思っているかどうかを、一つの主張として押し出せることを前提としている。しかし、先にも述べたように、この主観は一定でないし、一つにも絞れない。被害者一人の人間の中に「いやだ」「いやでない」という、快と不快が渾然一体となっていることは、よくある。
 河野さんがいうように、善悪が、個人の快・不快に依拠して構築されるならば、セクハラにおける一部の被害者は、善悪を二分できないことになるだろう。そして、被害者にとって、加害者の行為は、善でもあれば、悪でもある。ある意味で、これはものごとの本質を捉えているともいえる。
 では、セクハラは善でもあり、悪でもあるのか?それこそ、善悪の反実在論になるだろう。どんなに主観から、抽象化を試みようと、その立脚点に主観がある限り、「<主観>の呪縛から倫理を解き放つ!」(本書帯)ことはできない。
 私が主観の鬼フッサールを唯一尊敬している点は、腹のくくり方だ。主観に縛り付けられたまま、いかに主観であるかを客観的に記述しようとしたかというのが、現象学の気持ち悪さであり魅力であると、私は思っている。私は、河野さんが、この主観の泥沼に足を突っ込んだまま、倫理を語るならば、別のニーズがあると思う。この善悪の混乱の中にある被害者が、「私の『いやだ』『いやでない』と思わせる主観(こころ)はどこから生まれてくるのですか?」と問うときにこそ、現象学の出番だ。