「生命」と「誰か」は二律背反なのか?
加藤秀一『「個」からはじめる生命論』をきちんと読んだ。
- 作者: 加藤秀一
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2007/09/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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いつもの加藤さんらしく、ところどころに切れ味のよいセンス(引用のセンスも含めて)が光る好著だった。最後のほうは、ちょっと息切れしている感もあるが、加藤さん自身にとっても本書は通過点であろうから、これからの本格的な学問構築が楽しみになる本であった。それと、やはり思ったのは、この本と、『生命学に何ができるか』と、『死は共鳴する』などを並べてみれば分かるように、日本の生命論は、何か興味深いものをいま生み出そうとしているということだ。それが何なのかはまだよく分からないが、単なる輸入学術ではないものへと、少しずつシフトが始まっているように思う。
そのうえで、思ったこと。
私たちは自分が単なるのっぺらぼうの「生命」であることや、あるいはその虚ろな容器であることを求めているのではなく、かけがえのない人称的存在者――〈誰か〉――であることを求めているからではないだろうか。そして同時に、もうひとりの〈誰か〉である相手に向かって呼びかけ、また呼びかけられることを希っているからではないだろうか。(36頁)
加藤さんは、「生命」と「誰か」を截然と切り離す。そして倫理の問いを、前者の位相から後者の位相へと引き戻すことを主張する。これが本書の基本的なスタンスだ。これを見て私は、かつて自分が『生命学への招待』で、「生命圏の原理」と「他者の原理」の二つの原理を立てて、生命倫理学を超えていこうとしたことを思い出す。
私のいちばん大きな疑問は、「生命」の位相と、「誰か」の位相を、加藤さんの言うように截然と切り離してよいのかということだ。切り離したうえで、前者から後者へ、という話でほんとうによいのだろうか。私も確たる答えは持ってないが、この二律背反には違和感を覚える。それはかつての私への違和感でもあろう。「生命」と言うときには、そのなかにすでに「かけがえのない誰か」というモメントは、入っているのではないだろうか。こういうと加藤さんはきっと、それこそが「生命フェティシズム」だ、と批判するだろう。
このあたりのことは、いずれきちんと詰めて考えたいと思っている。
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追記
熊本日々新聞に書評を書いた。(2007年10月28日)全文↓
http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20071102/1194010890