愛と暴力の間

 杉田俊介が、弱者暴力についての批判を書いている。暴力の加害者は、ときに、別の暴力の被害者でありうる。そのとき、加害者は、過去の被害体験を持ち出して、自己のふるった暴力を正当化することがある。そのことについて、杉田さんは、簡潔に述べている。

この数年、私自身のだめさをふくめて、自分の足元を鶴嘴で掘り進めたあげく、行き当たった岩盤(足場)のありかを今、一つだけ再確認するなら、それは「かつて悲惨な被害にあった当事者が、それを理由に、別の人間に何をしてもいい、傷ついた人間が直接間接に他人を傷つけて構わない、とは言えない」、という単純な事実であるらしい。

杉田俊介「弱者暴力との抗争――内藤朝雄氏のよわよわしさについて(後半)」『いきすべき批評』(http://www.allneetnippon.jp/2007/08/4_10.html

読んでいて、私もこの数年の自分のだめさが頭を駆け巡った。
 これは、由緒正しき左翼の自己批判である。私の友人(左翼)が、同じように自分がやらかした弱者暴力を自己批判していた。それをみて、私が「なんでそんなことするの?」と聞くと、「私の人生を総括する必要があったから。」と答えた。なるほど納得である。「ソーカツ」「ジコヒハン」と聞くと、連合赤軍やらなにやら、きな臭い関連キーワードが出てきそうだが、それ自体が悪いわけではない。杉田さんを、だめな左翼だと批判する人がいるようだが、だめじゃない左翼*1だと思った。
 杉田さんには、以下の批判も加えられている。

 杉田さんも指摘しているように、「弱いものがさらに弱いものを叩く」ことがあるとしても、それが自覚的に行われることはほとんどない。「ジャイアンに殴られて痛かった。だから僕は飼い猫をいじめる」とのび太が言ったとしたら、「いや、それはおかしんじゃね?」と批判することができるだろう。でも、弱者が強者と戦い、暴力に抵抗しているつもりで「さらに弱いものを叩」いてる場合は、いったい誰がそれを「弱者による暴力」であると認定するんだろうか? そしてそのような批判は、「強者」による暴力との関係でどんな意味をもつだろうか?

常野雄次郎「『弱者による暴力』に対する暴力について」『共産主義、入門中』(http://www.allneetnippon.jp/2007/09/5_9.html

この問いには、私は、被害者による異議申し立てから出発するしかない、という答えが出ていると思う。「お前がどれだけ強者と闘っていようとも、おれの足をふんずけるのはやめてくれ」という異議申し立てによって、なされる。この文章では、杉田さんは、弱者暴力の被害者、という立ち位置から、論争相手の弱者暴力への異議申し立てをしている、と私は読んだ。*2そして、常野さんが心配する、「『弱者による暴力』を批判するという名目による暴力の方が蔓延している」(常野、同ページ)ことに対しては、それはそれで批判が必要だろう。弱者暴力を批判することと、弱者暴力を口実に、弱者に暴力をふるうことを批判することは両立する。もぐら叩きのようでうんざりするかもしれないが、それはうんざりしつつ、やるしかない。*3

 それはともかくとして、杉田さんの最後の部分が、「それ怖いです」(http://d.hatena.ne.jp/demian/20071007/p13)と批判されているので、もう一度読んでみた。

 微小な違いだが、「弱者暴力との抗争」と「弱者との闘争」(アドルフ・ヒトラー)は違っている。決定的なのは、全ての追い詰められた弱者が必ず弱者暴力を振るうとは限らない、という単純だが圧倒的な事実だ。しかし、「弱者暴力との抗争」を「弱者との闘争」から分離しうる基盤は何だろう。戦いがたんなる戦いのための戦い、殺し合いの螺旋ではなく、弱者暴力を振るうその他者――弱者ゆえに最大の敵――をあるやり方で愛するからこその戦いであること。その愛自体が「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」(『マタイの福音書』)というタイプの、わかりにくい愛、殺意をもふくむ愛であること。言葉の一粒ひとつぶが愛の雪片でしんしんとぬれてあること。

杉田、同ページ

この部分は、本当に難しいと思う。なぜなら、「お前のためだ」といって、暴力をふるうのは虐待やDVの常套句であり、そこには「お前を愛しているからだ」という言葉が添えられやすい。だから、この『マタイの福音書』じたいの、扱いが難しいのだ。
 その上で、私はこの「殺意を含む愛」はもっと掘り下げて考える価値のある言葉だと思った。おそらく、この一節は、固定された関係性を掘り崩すなかで、保たれていた平穏が失われ、敵対が生まれる可能性を示しているのだろう。みたくないものに蓋をして平和を保つことではなく、それをこじ開け敵対することを愛とする。*4
 ここで、たぶん、もう、何千年も、人類が誕生したときから人間は考えていたのではないか、と思うような、次の問いを繰り返すことになる。「愛と暴力は、どうやって線引きすればいいのだろう?」もちろん、これも異議申し立てと、討論的、論争的やり取りの中で探っていくしかない。しかし、なぜ、人間は愛するものに、暴力をふるってしまうのだろう。そして、なぜ、暴力をふるわれるとき、その相手に対する深い思い入れ――これは愛としか言いようがないのではないかという思い入れ――を持つことがあるのだろうか。
 私は、杉田さんが、まかりまちがって、論争相手を死に追いやるのではないか、という意味で怖いとは思わない。ただ、この暴力の前に、論争相手を愛する、という結論は――崇高だと思うが――怖い。杉田さん個人が、ではない。私も、愛するよりほかに、暴力の連鎖を止めることはできない、と思うから怖いのだ。なぜ、誰かを愛そうとすると暴力があらわれ、暴力があらわれると愛が必要になるのか。暴力と愛の密着度が怖い。

追記:コメント欄でお知らせいただいたので、demianさんの記事の移動に従い、リンクを修正しました。
 ところで、私は杉田さんの文章に関して、一つ目の引用を誤読していることに気づきました。杉田さんは、この数年、自分のだめさを考えておられたんですね。私は、この数年、だめだっただけで、まだあんまり考えてません。似て非なる両者の、この数年でございます。

*1:杉田さんは、別にだめな左翼でも、問題ないと思いますけど。

*2:念のため書いておくが、「暴力への異議申し立て=暴力の認定」ではない。異議申し立てを、議論に発展させていくことが重要である。杉田さんの最終部の「私自身を含めて、誰が加害者/被害者/弱者なのか、自分たちが今どんな「議論の場」でこの泥のような議論を続けているのか、土と泥を分けられるのか、それ自体が自明ではなく、討論的=論争的に決められていく以外ないのだ。」(杉田、同ページ)も参照。

*3:そもそも、人間が暴力をふるうということ(ついでに言うと、自分も暴力をふるうということ)自体が、うんざりすることである。由緒正しき左翼でいるためには、粘り強く気長にならねばならない。(で、すぐにキレるのが、だめな左翼の典型だと私は思っている)

*4:この一節を、ぜひ結婚式の説教で言って欲しいと思った。…ウソです、それこそ「それ怖いです」。