浅野素女「フランス父親事情」

フランス父親事情

フランス父親事情

 フランスに住む女性が、フランスの男性にインタビューを行い、それをエッセイ風にまとめている本である。浅野さんは、父親について考える事は、母親について考える事でもある、という。浅野さんは、母親だけの育児が、閉じた母子関係につながっていくことに警鐘を鳴らしている。母親の愛情が深いだけに、愛情は自己愛に変質しやすく、ときに子どもを支配する暴力になることを指摘する。その母子関係へ介入する他者として、父親が求められているのだ、と浅野さんはいう。
 この本では、なにより、フランスの父親たちのエピソードが面白い。ある産院では、父親学級が開かれる。その中には、男性のみのグループミーティングのプログラムが準備されている。男性の産科医のファシリテートのもとで、率直に「血を見るのが怖い」「妻の苦しむ声を聞くのが怖い」と不安が語られる。ミーティングの最後には、出産のときの、女性の体が経験する痛みは避けられないだろうが、男性はそれを共に乗り越えていけるのだ、というビジョンが提供される。浅野さんは次のように考察する。

 出産が女性にとってたいへんなのはもちろんだが、大部分の父親にとっても、出産は女性とちがった意味で痛みを伴う残酷な経験なのだ。出産に立ち会って、気分が悪くなり、別室で寝かされることになる男性は意外と多い。女性の苦しみを前にして、自分はその苦しみを分かち合えないという罪悪感から、二番目の子どもはいらないと思ってしまう男性もいる。出産の時、なるべくなら下半身麻酔をしないで産みたいと思っている場合でも、女性が求める前に、つき添っている男性の方が麻酔医にSOSを出しに走るケースも多いそうだ。下半身麻酔をしたところで、痛みが魔法のように完全に消えるわけではないし、いずれ、多少の痛みは避けられない。会陰切開の痛み、初めての授乳の痛み……出産は、その前にも後にも、たくさんの痛みを伴う。
 「妻は痛い思いをし、ぼくは苦しんだ」
 ストルック医師の著書の中に登場するある男性の端的な言葉だ。
(38ページ)

 また、妻から妊娠の報せを聞いた男性の語りはこう描かれる。

 会社帰り、すらりとした長身をスーツに包んだパスカルは、なるほど、どことなくダンサーのエレガントな雰囲気を漂わせている。パリの東、ナシオン広場に面したカフェのテーブルの向こうで、彼は頬を少し紅潮させて言い淀んだ。
「マリから妊娠したと聞いた瞬間、なんていうか……、男の本能のエネルギーみたいなものが、わーっと腹の底から湧き上がってきたんだ。自分を男だって、あれほど強く感じた瞬間はなかった。自分の反応に、自分で驚いたくらいだよ。」
 パスカルの真摯な証言には心を打つものがあった。おそらくパスカルは、妻の妊娠を知らされて、ほとんど性的な興奮を覚えたのだろう。それは雄叫びにも似た、男という性を持つものが究極の目的を達成した瞬間の、ほとんど肉体的な反応だったようだ。これに似た証言は、パスカル以外の男性からも幾度か耳にした。
 子どもを持ちたいと望んでいた場合、パートナーの妊娠は、男性にとってひとつの到達点である。男は男の性器を持つから男なのであって、男性性器が勃起する、またはそのような性的興奮がある、そういう反応があるからこそ、男は迷いなく自分を男だと認識することができる。
(164〜165ページ)

浅野さんが探っていくのは、女性と同一化した男性、すなわち、「男性の中の母性愛」ではない。大胆すぎるくらい、浅野さんは男女の性差を区別していく。男性には、女性とは違うかたちでの、子どもを産み育てる事への本能があることを示そうとする。
 浅野さんは、現代フランスが女性優位社会になっている状況に、批判的である。男性が、女性のご機嫌伺いをし、女友達のような恋人役を務めようとする中で、本来の男性性が抑圧されていることを問題にする。浅野さんは、女性と男性が対等な関係を目指す事を当然としながら、それは男性が女性化し、女性が男性化することではない、とする。浅野さんは、次のような女性への批判もしている。

 ある意味では、女性たちも袋小路に入り込んでいるのだ。
「ゲイの友だちといる時が一番ほっとするわ」
とモルガン(二七歳、病院勤務)は言う。
 ゲイの男性は、女性の感性に寄り添って話を聞いてくれるからだそうだ。恋愛の対象外だから、気取る必要も飾る必要もない。女にとって、ゲイの友人ほど楽なものはないのだ。でもこれもひとつの逃げではないだろうか。男と女はちがう。そうしたちがいを認め合わずに、ちがいをただ障害と捉え、自分の価値観や世界観に寄り添ってくれる相手しか受け入れないのでは、出口なしの迷路にはまり込むだけ。ちがいを楽しんで手なずけなければ、男女の闘いはどこまでも続くことになるだろう。
(177ページ)

 このような男女の二分化は、批判されることも多いだろう。それを見越しての執筆だったと、浅野さんは、「あとがき」でこう語る。

 ひところジェンダー論議が盛り上がったが、「ちがい」を扱うにはかなりのエネルギーがいる。男と女はもとからちがうなどと言えば、反動的と捉えられかねない。私は進歩的とか反動的とかいう世界の区切り方にはついていけない、あまり政治的ではない人間だ。進歩的名言説をまき散らす人が、実は深いところで反動的だったり、反動的と呼ばれる人の中に、新しい思考法を恐れぬ勇気が見られる場合もある。だから、そうした見方と距離を取る癖が身についてしまっている。そんな私が果たして「ちがい」についてうまく語れるのだろうか。そのあたりが、私に足踏みさせていた原因だったかもしれない。
 おそらく、うまくは語れないし、失敗に終わるかもしれない。だが、うまく語ろうとすること自体が邪道なのだ。私にできる唯一のことは、人々に寄り添い、その日々の逡巡や哀しみ、人間の波の中から立ち上がってくる泡粒のような囁きやため息を掬い取り、そこに時代の流れを感じ取ることなのだろう。それだけでいいとは思わないが、そこからしか始まらない。そう思い切ることで、ようよう書き出すことができた。(226ページ)

私は、この本は非常に勇気のある本と感じた。私にとって、女性が男性に要求するものについての批判は、耳の痛い指摘もあった。子どもは、男と女の間にしか生まれない。その事実から目をそらさない、という姿勢は単純なようで、(特に女性にとって)出産について考えるときには難しいものだ。
 しかし、やはり違和感も残った。精神分析を援用し、父親を「他者」として捉えている。おそらく浅野さんは(男性にあるとされる)「父性」を、母親として振舞う女性の「母性」と対にして、他者の条件にあげているのだろう。しかし、浅野さんは「父性」が男性にしかない、ということは説明していない。この問題ともつながってくるのだが、浅野さんは徹底してトランスジェンダー(さらに言えばインターセクシュアル)についての議論を避けている。意図的か非意図的であるのかは、わからないが、男女は真っ二つに分けられるわけではない、という点を無視したのは、この本の大きな問題だろう。
 ただし、浅野さん自身も、この本で全てが語れるとは言っていない。とにかく私たちは「男と女は違う」と思いがちな世の中を生きており、男と女の間からしか子どもは生まれない。その現実を、もう一度見つめるためには、よい叩き台になる本だと思う。面白かったです。*1

*1:「父親の復権」が語られるが、林ナントカさんの本とかとは、全然ちがいます。