加藤詩子「一条さゆりの真実」

一条さゆりの真実―虚実のはざまを生きた女

一条さゆりの真実―虚実のはざまを生きた女

 私の世代だと、一条さゆりといえば、「二代目」が思い浮かぶのではないだろうか。「二代目」の何本かの雑誌のエッセイを読んでいた。しかし、私は、映画化、裁判となった一条さんの顛末をリアルタイムで知らないからこそ、食い入るように読めたのだと思う。一言でいえば、この本は、加藤さんから一条さんへのラブレターである。
 晩年の一条さんに密着して取材をしていた加藤さんは、どんどん彼女の魅力にとらわれ、まるで唯一の身内であるかのように、巻き込まれていく。160本をこえる取材のテープを元に、なんとか彼女の人生を一冊の本にまとめようと奔走する。ところが、彼女が亡くなった後、彼女の語った話は、ほとんどが嘘であったことを知る。彼女は、大変な虚言癖を持っていたのだ。
 「裏切られた」という思いを抱きながらも、加藤さんは、もう一度、関係者に取材を始め、彼女が嘘でしか語れなかった人生の核心を探そうとする。

 そうだ・・・・・・。どうして嘘がいけない、悲しいと決めつけるのだろう・・・・・・。嘘を語ることで何より彼女は本音を語っていたのではないか・・・・・・。虚実のはざまに、何より本当の彼女の姿があるはずだ。
(中略)
あえて事実とは違うことを語ったことの中に、あるいは事実と思い込んで語っていたことの中に、私が生前の彼女から感じた”入り込めない何か”、彼女がこれまでの半生で苦しみ格闘し続けてきたものがある気がした。(118頁)

 お金を渡すことで愛情を確認しようとする癖、殴る男にばかり執着してしまう癖、アルコールで一変する衝動的な性格。その原因を加藤さんは、彼女の恵まれなかった幼少期に求める。もちろん、華やかなストリッパーという側面は、彼女ならではだろうが、私は読んでいるうちに、これまで繰り返し読んできたバタードウーマンのエピソードにあまりにも合致していて辛くなった。必要とされるならば、自分を投げ打って尽くすことでしか、自分に価値が見出せないため、結果的に自ら暴力の輪の中に飛び込んでいくように見えるのだ。
 しかし、加藤さんが描き出すのは、可哀想な家庭内暴力の被害者である、哀れな女ではない。動物のような生命力で、殴られても騙されても、這い上がろうとする強さと、他人をあっという間に魅了する優しさと気遣いを見せる魅惑的な女性である。

 大騒動になったわいせつ裁判*1では、弁護団に沢庵の入った握り飯を振る舞い、クーラーのない裁判所で、お絞りで弁護士の汗をふきまわる。たとえ、被告という立場であっても、周りが騒いでくれることが嬉しいと感じてしまうのだ。

 彼女の裁判を見ていた人も、彼女が甲斐甲斐しくあっちこっち動き回って証人や弁護士の世話をし、時には椅子を押して座らせたりもしていたのが、見ていて滑稽だったという。
「証人尋問でも僕が尋ねるでしょう、そしたら自分の言いたいことを聞いてくれるという感じで、実に嬉しそうに『はい』と答えるわけです。そういう風だから、裁判所側も検察側も、彼女のことを気の毒に思ってるのがありありと見えました。検察官も、弱ったなぁ、何で俺がこんなことをやらなきゃいけないんだ、という感じでね。」
 まるで法廷さえも、彼女の舞台のようである。そんな人を引きつけるものが、健気なほどに漂っていた様子が伝わってくる。(248頁)

彼女は執行猶予を抱え、なんとしても裁判を闘い抜き、減刑を求めなければならなかった。その中で、裁判支援者とのズレも生まれてくる。騒がれていたような女性解放のモラルのために闘うのではなく、彼女はご飯を食べ、生きるためにその姿を晒して闘っていた。加藤さんの、裁判支援をしていた深江誠子*2らへの批判は、あらゆる運動に通底する。

 どんな社会運動をとっても様々な支援団体があるが、本当の支援とは何かということを考えた時、明確にいえることは、当事者がいつも主役でなければならないということだと思う。そういう点では、当時の深江らの運動というものが、若さと経験不足であったとはいえ、やはりまだまだマスターベーション的な”おしかけ女房”であったことは否めない。(242頁)

さらに、加藤さんの批判の筆は、彼女をプロモートしていたストリップ業界の経営者や、ストリップ誌の編集者へ向かう。彼らは、「ストリップは違法行為なのだから、法の前で闘うことはできない」と、法廷闘争に取り組む彼女を批判する。

 特出し嬢の彼女にイデオロギーを求めたのは文化人や運動家かもしれないが、あくまでもそれは彼女の裁判を語ったり支援する上でのことで、極めて単純かつ罪のないことといえる。しかし彼女を利用した実質の戦犯は、ヒモである中谷ら*3である。彼らはすぐに全面降伏するわけだが、かといって彼女とともにムショに入るわけではない。にもかかわらず、闘う彼女の姿勢を批判したところで、私は何の説得力もないと思う。
(中略)
 闘っても無駄な法律の中で、ジタバタしながら闘い、生き続けていくのが人間なのではないだろか。ましてやそれが自分のことではなく、”か弱い”隠花植物の彼女のことであれば尚更だ。そんな彼女を是が非でも守ってやるのが、彼女を神輿に乗せた人たちの責任ではないかと思う。
(中略)
 晩年の彼女は裁判のことに触れ、「カトーさん、法律は間違ってるよ・・・・・・。今でも言いたい・・・・・・。そなん思わん・・・・・・?」と嗚咽するように泣き出したことがあった。一人ババをひかされた者の悔しさとやるせなさは、晩年になってもなお、彼女の心の奥底で、消えることなくくすぶっていたのだ。(244〜246頁)

加藤さんの本では、彼女が引退してからも、彼女の名前を利用し、金儲けをした男、搾取した男、そして勝手に一条さゆりを名乗りながら、彼女の生き様を認めない「二代目」へと批判が続く。あまりにも大きな名前と、彼女の魅力に反比例するように、彼女はその力を吸い取られ、金と酒だけに執着せざるをえないような生活に追いやられていく。

 加藤さんは、一貫して、一条さゆりを「彼女」と呼ぶ。いくつもの偽名を持ち、本名の池田和子とも呼ばれていた女性。しかし、加藤さんにとっては、唯一無二の死を看取った孤独な女性であり、”私だけの彼女”なのだ。様々なインタビューの語りの中で、彼女は加藤さんの知らない姿を明らかにしていく。彼女と過ごした、一枚一枚、重ねてきた時間を剥がすような作業は、加藤さんにとってどれだけの苦痛だっただろうか。それでも加藤さんが求めたのは、”私だけの彼女”を深く掘り下げることであって、「一条さゆり」でも「池田和子」でも「ストリップ小屋の目玉」でも「ドヤ街の菩薩」でもなかった。その彼女、と呼ばざるをえない、自分の前に間違いなく現前していた女性と向き合い続けるところに踏みとどまったのが、この本のおもしろさだと思う。
 全編を通して、読んでいて、吹き出したり、イラッとするほど、加藤さんの彼女への思い入れが露出している。突き放して書こうとした次の瞬間に、彼女に寄り添っている。実は、ここで現われる真実とは、「一条さゆりの真実」ではなく、一人の人間が背負う人生に没入したい誘惑と、それでも文章化したいとあがく、「ライター加藤詩子の真実」である。
 ルポルタージュとしては、あまりにも私情に満ちてるのかもしれない。しかし、記号化された一条さゆりを抜けだし、また可哀想なバタードウーマンのモデルにもはめないように、ディテールを逃さず、矛盾を見なかったふりをせずに書き出し、「私はあなたのことを理解したい」と彼女に叫び続けたラブレターは、一気に読んでしまう力があった。

 ぜひ、フェミニズムの棚に置くべき本である。特に、DV支援の棚に並べて欲しい。彼女は男女関係のトラブルが絶えず、青あざができるまで殴る男とばかりつき合い、あげくにガソリンで火を付けられ、窓から頭にビール瓶を落とされながら、それでも、殴る男にばかり執着する。彼女に対して、それでも「男と引き離すことだけが、DVから女を救う方法だ」と言う支援者*4はいるのだろうか。そして、もし、彼女が特殊な被害者であり、「自分たちの支援の対象とは違う」と思っているのならば、それは支援ではなく、裁判支援の形をとって利権をむさぼった彼女の周囲にいた人々と変わらない。

*1:ストリップで「特出し」(女性器をみせる)をしていた一条さんは、逮捕され(昭和46年)、裁判にかけられる。この騒動には多くの文化人や女性運動家も加わり、イデオロギー合戦の様相を呈した。

*2:当時、女子大生で女性解放運動の視点から裁判を支援していた。

*3:ストリップ小屋の経営主

*4:未だにそういう人がいること自体がかなり脅威的だと私は思っていますが。