誰のための被害者参加制度なのか?

 kanjinaiさんも下で紹介しているが、20日に刑訴法の改案が可決され、裁判の「被害者参加制度」が現実化するという方向性が決まった。法学者の白取祐司はフランスの法制度と比較しながら次の点を指摘する。
 フランスの刑事裁判は職権主義で裁判長のイニシアチブで審理が進む。検察と被告が直接に攻撃・防御をする、日本の当事者主義とは全く状況が違う。また、被害者に認められているのは民事賠償のための主張・立証である。量刑は要求できない。(=死刑は要求できない*1)さらに、フランスの刑務所における報酬は日本と比べて高額なので、弁済金をそこから払うこともできるようになっている。(白取祐司「日本型『被害者参加』の導入で刑事裁判はどうなるか」『世界』2007年5月)
 このように、フランスの被害者参加制度は、厳罰化とは本来関係のないものである。しかし、現在の日本の状況では、甘すぎる司法を追求するために、被害者参加が必要だ、という論調がとられやすくなっている。
 今のところ、私が読んだ文章で一番まとまっている、この制度への批判の文章は後藤弘子さんのものだ。後藤さんは、重要な問題として、裁判参加をしない被害者への対応が全く配慮されていない点を指摘する。

 「基本計画」が指摘するように、犯罪被害者遺族はあらゆる制度を利用して初めて、亡くなった被害者本人に対して「責任を果たせたと感じる」ことができる。そのため、遺族はどのような犠牲もいとわず、「被害者参加人」となり、刑事裁判に参加するであろう。しかし、実際には参加できない遺族や、遺族内での意見調整がつかない場合も考えられる。そうした場合、制度がなく排除されているならともかく、制度があって「自らの意志」で参加しない選択をすることの精神的負担は計り知れない。参加できなかった自分を責める被害者に対して、本来なら十分な支援が必要なはずであるが、今回の制度設計には、選択しなかった被害者に対する配慮がどこにもない。
 また、今回の制度を利用できるのが公判請求された一定の事件の犯罪被害者に限られていることから、制度を利用したくてもできない犯罪被害者に対する配慮もまったくない。
 さらに、たとえ参加しても、すべての行為について、検察官の許可が必要であるし、また、証人尋問は情状に限られるなど、制限が多い。犯罪被害者の尊厳回復のためには、自らコントロールできることを増やしていくことが重要であるが、今回の制度はその意味では犯罪被害者の回復には役に立たないどころか、マイナスに働く可能性も否定できない。

(後藤弘子「犯罪被害者にとって朗報となるのか」『法学セミナー』2007年7月号、63頁)

三つめの指摘は重要だ。犯罪行為は、被害者の主体性を無理矢理奪い、徹底的に受動的で無抵抗な状態に晒させることが多い。特に、性犯罪の被害者はそのような状況に追い込まれやすい。暴力に支配されて抗えない、という無力感から回復が必要になる。
 例えば、アメリカのレイプクライシスセンターは、この点を熟知しており、対応する支援者は常に、被害者に選択肢を並べる。それは「この椅子に座る?あっちに座る?」「飲み物を飲む?何を飲む?」というような、些細なあらゆる行動に、「あなたの自由は保障されていますよ」というメッセージをこめていく。そのことによって、状況の支配権を自分が握ることできるのだ、と被害者が主体性を取り戻せることが大事な目的になる。
 現在の日本の刑事裁判制度は確かに被害者にコントロール権が少ない。だから、なんらかの司法改革は必要であった。しかし、裁判に被害者が参加することが最良の方法だったのか。様々な人が指摘しているように、検察が勝訴するためのカードとして被害者参加が使われるとすれば、さらに検察の状況支配により被害者が傷つけられることになるのではないか。
 さらに、公判まで持ち越せる犯罪被害者は多くない。1999年の時点で窃盗の不起訴率は58.5%、交通関係業過*2不起訴率は87.8%である。*3そして、犯罪人地件数は2000年で窃盗が65.5%、交通関係業過は25.0%を占める。もちろん、殺人や放火などのほとんどは起訴されるが、実際の刑事事件の総数を占める割合は決して多くない。
 また、起訴か不起訴か、という判断は検察庁検察官[追記コメント欄でご指摘頂きました。]に一任されており、被害者はその審査のあいだ大変不安定な心理状態におかれる。不起訴処分になった場合は、検察審査会に申し立てすることができるが、ここで起訴相当・不起訴相当の議決が出ても拘束力はない。
 つまり、多くの被害者は公判までたどり着くことができない。もっと言えば、性犯罪は親告罪であり、被害者が公判を求めなければならない。しかし、現在の日本の状況では、裁判を起こす中での二次被害は避けがたく、そのダメージも甚大であるために、多くの被害者が公判を断念する。こういう状況を生み出す社会情勢や司法システムは批判しなければならないが、被害者が公判を断念することはなんら批判されることはないし、「公判を多くすることによって社会を変えるべきだ」と外から強制されることがあってもいけない。
 その上で、今回の「被害者参加制度」がどれだけ有効性が高いのかは、疑問を持たざるを得ない。また、法案の制定過程にも、批判は向けられている。先の後藤さんはこういう。

 法制審議会の審議で特徴的だったことは、「全国犯罪被害者の会」(あすの会」が作成した案を元に、審議が行われたことである。事務当局は、第一回会合の冒頭で、今回の諮問はこれまでと異なり、具体的な要項骨子を示して意見を求める形をとっていない、とし、「幅広い観点から検討」していただきたいと述べている。ところが、実際は、「全国犯罪被害者の会」の提案を元に議論が行われ、現行制度とあまりにも相容れない点のみ(たとえば、犯罪被害者の訴因の決定権など)を是正する形で議論が推移していった。
 この背景には、委員として「全国犯罪被害者の会」の代表幹事(犯罪被害者)が参加していたこと、具体案として「全国犯罪被害者の会」案が存在していたこと、弁護士委員も刑事弁護関係の委員と被害者支援関係の委員とで、意見が合わず、共同歩調がとれなかったことがある。

(後藤、61頁)

「犯罪被害者の会」の代表幹事は司法関係者であり、もちろん、他の委員も司法関係者であった。その中で、支援関係の委員だけが司法関係者でなかったため、その委員がかなり苦しい立場に置かれたことを指摘する声もある。さらに自民党の後押しで強引に通した側面もあるとの指摘は、法律時報の座談会(「犯罪被害者と刑事訴訟」『法律時報』79巻7号)で出ている。

 もう一つ言うと、まだ、誰も指摘していないようだが、遺族とは誰を指すのだろうか?法律で、当人の家族を限定するには注意が必要だという議論は、臓器移植法でもなされてきた。また、被害者当人と被害者遺族は違う。遺族は、被害者が死んだ苦しみを背負うが、被害者当人は被害後も生きるという苦しみを背負う。この間には埋められない溝があることにも注意が必要だろう。

 なんにせよ、手放しで「被害者の権利が守れて良かったね」という結論では終われない難しさがある。年内に基本的なガイドラインが作られるようだが、経過を追っていきたい。

*1:むろん、ヨーロッパのEC加盟国は全て死刑制度が廃止されているのだが

*2:道路上の交通事故に係る業務上過失致死傷及び重過失致死傷をいう。

*3:しかし、被害者運動により、起訴率は変動している可能性がある。手元にデータがないのでそれは明記できなかった。