堀江有里『「レズビアン」という生き方』

「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う

「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う

 今年の秋から、来年の春にかけて、同級生が3人結婚する。そのうちの一人の結婚準備期間の幸せっぷりにあてられ、思わず「結婚してもいいかもねー」と恋人に漏らしたところだった。その折りにこの本を開くと、頭から冷水を浴びせられた気分になった。
 堀江さんは、レズビアン牧師である。堀江さんは、職業牧師の生業である、結婚式をとりおこなう仕事について、こう書く。

多少挑発的に例を挙げると、わたしにはこんな「素朴な疑問」がある。たとえば、「生活のため」という理由づけ――もしくは言い訳――であれ、ホテルなどでの結婚式の司会を行うこと。たとえば、あえて法律婚をしていること、異性愛者の中でも(いや、異性愛者のなかでこそ)戸籍制度への抵抗運動がつくられ、せめて法律婚を拒否しようとする人々もいるにもかかわらず。たとえば、あえて教会で結婚式という儀式を行うこと。無意識であれ、これらのような「正しいセクシュアリティ」を特権化する行為と、同性愛者差別への取り組みに矛盾はないのだろうか。もちろん、両立するはずがない、と結論づけて「切り捨てる」つもりはない。ただ、せめてその矛盾に立ち止まって思考することでさえも不可能なことなのだろうか。
(100頁)

私は、面倒になっていたのだ。「なぜ結婚しないの?」と聞かれるのが面倒だった。相手の納得する理由を考えるのが面倒だった。しかし、その面倒くささは、異性愛者であり、パートナーがおり、結婚が可能であるという、「結婚を選ぶことのできる特権」を手にしているからこそ、得られる問題である。そして、面倒くささによって、思考することを停止した瞬間に、私は「正しいセクシュアリティ」を特権化する行為に荷担することになる。
 さらに、堀江さんは続ける。

 このように差別構造の問題に踏み込むと、「問題意識を共有する気がないのか」と恫喝(と、わたしは感じるのだが)されたりすることがしばしばある。一緒に考えてきた仲間を評価しないのか、という避難もある。つまり、レズビアンという場から差別構造を問うことはときに分断行為としてレッテルを貼られる危険を伴うこともある。そして、それを主張する側は「強い人間」であると表現されることもある。
 しかし、忘れてはならない。マジョリティは既得権――自明視されている事柄のなかに埋め込まれた特権――が侵害される、という恐怖を呼び起こされるがゆえに、差別構造を問うマイノリティの側に「強い」という形容詞をつけているに過ぎない。
(100−101頁)

これはあらゆる差別を問う場で起きることではないだろうか?女が強いとされ、障害者が強いとされ、在日外国人が強いとされ・・・。堀江さんは「恐怖」だと言うが、私はもっと卑近な「面倒くささ」としか呼べないような感情を持っている。「あー、疲れてるのにな」「普段から考えてるほうなんだよ」と言い訳が頭をよぎる傲慢さ。それこそが差別の醜さであるのに。
 堀江さんが直面したのは自らが属するキリスト者コミュニティ内の、同性愛者差別事件である。レズビアンとしてこの問題への抵抗運動をする中で、このようなエピソードがあったという。紛糾する議場で、堀江さんは話し合いの糸口を、議長団と交わす「約束」によって得る。

とりあえずの「約束」で、その場はおさめられ、わたしはふたたび、傍聴席に帰った。そこにいたのは、静かに、しかし、見るも無惨なキョーレツな顔をして涙を流している二人の友人たちだった。かのじょたちは、きっと、わたしの前日の一言がなければ、一緒に執行部への直談判に向かっていたのだろう。前日、わたしは何度も何度も「大住文書」を読みながら、言葉にならない思いのやり場がなかった。その苛立ちも含めて、わたしは一緒にいたかのじょらに暴言を吐いた――「異性愛者のあなたたちにはわからない」と。なんてことを言ったのだろう、と、後悔しても、すでに遅かった。
 わたしにとって、”たたかい”の原点はここにある。遠くに見える二人の(異性愛者の)女たちの背中と、傍聴席に座って涙を流していた二人の(異性愛者の)女たち。
(204頁)

私は、この文章を読んでいるときに、道は開かれたと感じた。「わからない」のだ。しかし、まだ、「わからない」という言葉は聞こえている。それは、細い細い、私(異性愛者)と堀江さん(非異性愛者)をつなぐ一本の糸なのだ。

<実感>から立ち上がった声は、語ろうとしても聞かれない。その結果、その声は掻き消され、「語らぬもの」とされていく。これまでも、その歴史のなかで、多くのレズビアンだちは<抹消>されてきた。一人ひとりのたくさんの個々の<経験>から立ち上がる、しかし聴かれることのない声を掻き消すことは、その存在を<抹消>することにほかならない。
(241頁)

多くの思想系の書物では「声を聴く」のが大流行だ。助けを求める声?悲痛な叫び?そんなものを期待して、「声を聴こう」とするのは、すでに聴く構えとしておかしい。

差別に公的に抗うことは、”わたし”と”あなた”を取り巻いている異性愛主義という<規範>に異議申し立てすることである。であれば、必然的に誰もが<自己切開>を伴うはずのものである。それまで「自明のもの」とされてきたことが、覆されようとするのだから。いや、少なくともそれを問おうとするのだから。であるから、「課題」として列挙されているうちは許容されつつも、実際に差別に抗おうとする行動に参与すると「反発」を導き出してしまうわけだ。
(55頁)

この本は、堀江さんのたたかいの記録である。しかし、それは異性愛者を責める調子ではなく、差別という問題に向き合い、細かく分析していく姿勢で語られる。堀江さんのたたかっている、キリスト教者のコミュニティの状況は絶望的だという。そのことについて、こう書いている。

ただ、もし教団に希望があるとすれば、こんな<絶望的>な状況のなかに留まりつづけ、せめてもの抵抗をつづけていこうとする人々がいること。(略)ほかにもあきらめずに立ちつづけようとする女たちがいる。であれば、わたしもしばらく、この<絶望的>な場の片隅にかかわっていたいとも思う。だから、わたしにとっての現状認識は、本格的に絶望的、ではなくて、あくまでもひとつの表現としての<絶望的>でしかない、ということだ。
(224頁)

 付箋を貼りながら読んでいたら、大変な量になってしまった。論の進め方も、用語の使い方も、セクシュアリティの問題にこれまで馴染みがなかった人にも、読みやすいように注や解説が加えられている。短い章立てで、様々な問題にスポットが当てられていき、性の問題に関する入門書にもなるように感じた。なかなか、書店で手に入りにくいようだが、アマゾンでは取り寄せできる。ぜひ、一度手にとって欲しい。