「成長停止」をめぐるシンポジウム
macskaさんが、ワシントンで行われた「重度障害児に対する『成長停止』療法」についてのシンポジウムについての報告をブログで書かれている。macskaさんによる経緯の説明は以下のようになっている。
論争の発端となったのは、アシュリーと呼ばれる女の子をめぐる一つの症例。彼女は生まれつき重度の知能障害を持っており、生後3ヶ月の赤ちゃんと同程度の知能しか持たないとされるばかりか身体的にも手を挙げたり足で歩いたりは不可能な状態だが、それ以外は健康だったとされている。両親は彼女を一生自宅で介護していくつもりでいるが、彼女の身体が年齢相応に成長すると介護や外出のために彼女を持ち上げたり移動させることが困難になり、またベッドの上で身動きのできない彼女自身にとっても身体的に大きく成長することは負担であると考え、一時的なホルモン投与と外科手術によって彼女の成長を抑止するよう医師に求めた。ワシントン大学付属のシアトル小児病院は倫理委員会を開いてこの要求について審議したうえで、40人の委員全員の賛同のもとに、彼女が6歳の時点(3年前)でホルモン投与と子宮・乳腺の摘出を行なった。
macska「重度障害児に対する「成長停止」をめぐるワシントン大学シンポジウム報告(前編)」『macska dot org』(http://macska.org/article/186)
シンポジウムの議論もかなり込み合っていて、読み応えのある記事で、後半が気になる。*1特に、私が印象に残ったのはmacskaさんが会場でした次の指摘。
わたしは Woodrum が自らを「両親の味方」と位置づけていることに対して、医者は何よりもまず「患者の味方」であるべきではないのか、と指摘した。フロイディアンではないけれど、わたしは Woodrum が「患者の味方」と言わずに「両親の味方」と言ったのは言い間違えでも省略でもなく、本音の発露だと思っている。歴史的に見ても、親と医師が結託して障害者たちから自己決定権を奪おうとした例は(例えば精神障害者に対する過剰な投薬や入院の強制など)いくらでもある。いまさら医師たちが「患者の味方」になろうとしてもそう簡単に自己変革できるわけがないわけで、だったらなおさら発達障害のある人たちの権利を守るためには、法律家に障害者の権利を代弁させたうえで (guardian ad litem) 法廷の許可を必須にするべきではないか、と主張した。
(同上)
「当事者の声を聞く」という話のときに出る問題。とてもデリケートな問題だと思う。これまで障害者運動が問うてきた問題でもある。日本でも、これから論じられるはずだ。
これは障害者を取り巻く問題だけでなく、たとえば、殺された被害者(子ども)の親と、被害者自身を同一化し、親の声を「被害者の声」と呼んでいいのか、というような問題とも同根である。慎重に考えるべきだ。既に、先日の大阪弁連のシンポジウム*2で、「被害者と司法を考える会」*3の片山さんも少し触れていた。「少し違いはあると思う」というようなコメントだったと記憶している。現在のマスコミの報道では、現在その違いについては区別されていないように思われるが、考えなければならない問題だろう。特に、これだけ「被害者の声」という言葉が広まり始めただけに。
*1:英語版は既に公開されている→http://eminism.org/archive/2007/05/17-12.html いくつかのmacskaさんの短いコメントはこちらにもある→http://d.hatena.ne.jp/macska/
*2:「犯罪被害者と司法を考えるシンポジウム」(http://www.osakaben.or.jp/web/event/2007/070428.php)