小畑清剛『近代日本とマイノリティの<生―政治学>』

非常に面白かった。著者は法哲学者で、本書は、とりわけ障害者やハンセン病者の生と、現代思想(副題にもあるように、C・シュミット、M・フーコー、G・アガンベンを軸としながら)とを切り結ぶという、非常な意欲を感じる力作。

その中でも、第一章は、ダーウィン、プレッツらに潜む優生思想を浮かび上がらせ、市野川容孝、松原洋子、立岩真也らの立論をもとに、シュミット=アガンベンの主権権力理論と、障害者プロレス、「夜バナ」*1、青い芝の会などの思想とを接合しようと試みる。

アガンベンによれば、強制収容所の住人は、あたかも死刑囚のように、「ある意味では、気づかぬうちにホモ・サケル、すなわち殺人罪を犯すことなく殺害できる生と同じものとなっている」。文殊菩薩やキリストのような聖なる存在に喩えられることのあるハンセン病患者も、癩療養所の「特別病室」に収容して殺害できる生であるという意味で、広義のホモ・サケルなのである。それゆえ、アガンベンが示唆するように強制収容所や癩療養所から出発する以上、H・アレントが主張したような古典的な政治に戻ることは、もはや不可能である。なぜなら、ユダヤ人にとっての強制収容所ハンセン病者にとっての癩療養所では、都市(ポリス)と家(オイコス)の見分けが全くつかなくなってしまっているからである。そこでは生物学的な「肉体=身体」と政治的な「肉体=身体」を区別する可能性は、もう永久に失われてしまっているのである。(p.35)

小畑はまた、「先天性身体障害者精神障害者そしてハンセン病患者の問題は、社会哲学や倫理学にとって決定的な意味をもつ」(p.36)と喝破する。そして、A・センの「潜在能力アプローチ」を肯定的に評価し、J・ロールズやR・ノジックを、障害者の問題を後回しにしたと批判する。「われわれ=健常者」と「かれら=障害者・病者・患者」との間の(「平和国家」ならではの)闘争を、丹念に読み解いている。
私が小畑を知ったのは、『法の道徳性〈下〉歪みなきコミュニケーションのために』における思考がはじめである。著者は自分を「異形の法哲学者」と名乗り、「法人間学」なる学問を打ちたてようとする。自身が重度の身体障害者でもある。その彼が小さいころ、みずから知的障害者を「劣った存在」であると考えていた過去を反省しつつ描写するあたりは、「生命学」の名にふさわしい研究者であるように私には思われる。

*1:『こんな夜更けにバナナかよ』(渡辺一史