ヴェネツィアに死す

ヴェネツィアに死す (光文社古典新訳文庫)

ヴェネツィアに死す (光文社古典新訳文庫)

 『ヴェニスに死す』は、最初に岩波文庫版で読んだ。kanjinai さん推奨の高橋義孝訳は未読である。いま手元にあるのは、岸美光訳『ヴェネツィアに死す』(光文社古典新訳文庫)。

 kanjinai さん引用のテキストは、岸訳では次のような日本語になっている。

 また、少年は一人、家族から離れ、アッシェンバッハのすぐ近くに、背筋を伸ばし、両手をうなじに絡め、足裏に体重を乗せてゆっくり体を揺すりながら、波打ち際に立っていた。海の青さをぼんやりと見つめるその足下に、波が幾重にも打ち寄せ、つま先を濡らした。蜂蜜色の髪はカールしてこめかみに垂れ、うなじを覆い、首に近い背骨のあたりで産毛が陽光に輝いた。胴体をぴったりと覆う水着を通して、肋骨の華奢な線と均整の取れた胸の輪郭が見え、脇の下は彫刻のようにまだ滑らかだった。ひかがみはつやつやとして、そこを走る青い血管が、少年の体を何か透き通った素材からできているように見せていた。(85−6頁)

 美少年タッジオのからだを舐めるがごとく見つめるアッシェンバッハ氏。色彩感溢れる文章が官能的である。

 立像と映し絵! 彼の目は、向こうの青い海の縁に立つ気高い姿を、その視線の中に収めた。そして崇拝する喜びに夢中になって、この視線で美そのものを捉えたと、神の考えたものとしての形式を、唯一無比の純粋な完全さを捉えたと確信した。神の中で生きているものが、人間の姿をとり、比喩となって、ここに軽やかに優美に、礼賛の対象として据えられたのだ。それは陶酔だった。老齢を迎える芸術家は、何の疑いも抱かず、むしろがつがつとそれを歓迎した。彼の精神は陣痛に苦しみ、彼の造形力は沸騰し、彼の記憶は、青年期にすでに受け取り、この時まで自分の炎では一度も煽ったことのない極めて古い思想を掘り起こした。そこには、太陽がわれわれの注意力を、知的な問題から感覚的な対象に転じさせる、と書かれていたのではなかったろうか。つまりこうだ、太陽は知性と記憶を大いに麻痺させ、呪縛する、その結果、魂は深く満たされて自分の本来の状態を忘れ果て、陽光の恵みを受けたものの中でも最も美しいものに驚愕し、それを賛美し続ける。それどころか、肉体の助けを借りなければ、より高い考察に進むこともできなくなるというのだ。じっさいアモルは、数学者と同じようなことをした。数学者というのは、純粋な形をまだ理解できない子供らに、その形の目で見て取れる図形を示してやるものだ。(87−8頁)

 マンはプラトンに凝っていたらしい。「神の考えたものとしての形式(←ギリシャ哲学における「形相」のことだろう)」とは、なんと大仰な(笑)。ドイツ人のインテリが書く文章だと思う。

 しかし男は、青白い愛すべき魂の導き手があの遠い向こうから自分に微笑みかけ、手招きをしているような気がした。魂を導く者が、腰から手を放し、遠い外を指さし、多くのものを約束する途方もない空間の中に、ゆっくりと先頭をきって動いていくような気がした。そしてこれまで何度もそうしたように、その後についていこうとした。
 数分が過ぎて、椅子に座ったまま横様に崩れている男を助けようと人が駆けつけた。男は部屋に運ばれた。そしてまだその日のうちに彼の訃報に接した世界は、衝撃を受け、尊敬の念を新たにした。(148−9頁)

 小説の末尾、アッシェンバッハ氏の最後の場面。