哲学のスタートラインに立つ

「生命学とはなにか」(http://www.kinokopress.com/civil/0802.htm)でも触れたが、私は自分のことを「生命学者」だとはまったく思っていない。私は、自分のことを「哲学者」だと思ってきたし、最近とみにその感は強くなってきている。生命学を開発しつつ、生命学的に生きようとしている哲学者という感じだろうか。

じゃあ、哲学者とは何かということになるが、まずその一般的な答えはないと思う。哲学者と詩人は、自称すればそれでOKというのがkanjinai説。(ただし自称するのに勇気がいりますけどね)。いまの私はどう考えているかというと、遠く古代のギリシアの哲学者たち、アジアのほうでは古代インドの哲学者たち等々を源泉として、そこに各地の哲学が合流し、混交し、泡立ち、そして様々に分流して、何十世紀を経ていまここの私へと到達して私の血肉となってしまっているこれ、これが哲学であり、この私が哲学者である、というふうに感じている。この圧倒的な伝統の先端に私は位置しているというこの生々しい感覚こそが、哲学者のリアリティなのだろうと私は思う。(と、こういうことをぬけぬけと言えないと哲学者とは言えないですよね、ニーチェさん)

このリアリティに正直になれば、私は、男である前に、日本人である前に、誰かの子である前に、誰かの親である前に、誰かの友人である前に、上記の圧倒的な伝統の一員であるということになり、これは、関係性と権力性を抜きにしてものを言うことを拒絶する現代思想の語り口からすれば噴飯ものの言説であるということになるだろう。そしてこれは、圧倒的な伝統・対・私という構図であるがゆえに、はやりのことばで言えばセカイ系以外の何ものでもなく、その点での弱点を共有しているということになるだろう。そしてやはり、この境位を彩るのは孤独である。

この言い方は、どう考えても、反現代的だな。意外にも、こういうことを別の面から語っているのが中島義道だと思うし、前に触れた本田透であるとも言える。その上で言えば、中島義道は哲学と心中し得てないように見えるし、本田透はいまだ批評家の安全圏から語っているように見える。でもそれぞれの道があり、それぞれでよい。

お勉強ごっこ(同業者を「バカ」と呼び合うゲーム)や、注釈ごっこ、位置づけごっこはもうする時間がないから、私は残された時間で悔いなく哲学者をやっていきます。この歳になって、はじめて哲学のスタートラインに立てた気持ちになっているのだから。

(ひとりで盛り上がってゴメン! あしたガイダンスだし、来週から忙しくなるので、ペース落ちます)。