姥捨山問題をめぐって

sugitaさんの「優生学・家族負担・尊厳死」で姥捨山問題が考察されている。
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070405/p1
姥捨山問題は、次のようなことを問題にする。

出来ないからしない、というのなら話は分かる。ところがこれらのケースでは、「出来るのに、しない」のである。出来るのに、しない。それはなぜか。それをすることで、私が(あるいは私の身内が)これ以上苦しむのがいやだからである。痴呆性老人の世話を続けることで、あるいは赤ちゃんを産んで育てることで、私がこれ以上苦しむのがいやだから、私は彼らを見捨てる。本人のためを思ってとか、そうするのが普通だからとか、様々な言い訳がなされるだろうが、心の奥底では、私がこれ以上苦しむのがいやだから彼らを見捨てるのだ。
http://www.lifestudies.org/jp/ubasute.htm

「できないのではなく、したくないから、しない。倫理的にそれは間違っていると言われるだろう。法的義務の放棄として裁かれる時もあるかもしれない。しかし、この感覚を見ないところから組み立てられる正義や自由の感覚は、どこか弱いのではないか」と言われるsugitaさんは、鋭いと思う。私自身は、姥捨山問題とは、端的に「嘘つき・欺瞞」の問題だと考えている。すなわち、「出来るのに、しない」ということを、「出来ない」と言い放ってしまうことに問題があるのでは、と考えている。私が苦しむがいやだから他人を見捨てるのだと、言えばいいのではないか。もしくは、私はそう言わせたい。「いやだから、しない」ということを、「出来ない」と言い放っておけばとりあえずは「許される」、ここに姥捨山問題の萌芽があるような気がしている。「本当は、出来るでしょう?」という声を封殺してしまうこと、ここにもまた姥捨山問題が論及する暴力が潜んでいるのではないだろうか。