拒食症のSNSがはやっているらしい

BBCサイトによれば、英語圏のSNSで、拒食症のコミュニティが流行しているらしい。もちろん以前からこの種のものはあったが、実名で輪を広げる拒食症コミュニティは、SNSならではであって、注目を集めているとのこと。

問題はそのやりとりの内容で、拒食症・摂食障害の当事者たちのセルフヘルプグループ的なものと、拒食症を賛美してお互いにテクや情報を交換するものとが、混ざり合っているとのことだ。

Members of such groups post pictures of painfully skinny girls for "thinspiration", compare dangerously low goal weights and measurements, and team up to "keep each other strong" in their quest to lose weight.

They swap stories on how they vomit until they cough blood, are often too weak to get out of bed and how they're scared family or friends will find out and force them into recovery.
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/6935768.stm(写真あり)

などというのを読むと、なんとも言えなくなる。でも、賛美とセルフヘルプの境界線というのもなかなか引きがたいのではないだろうか。

日本でもmixiとかに、きっと似たようなものがあるのだろう。

ポストコロニアルって

現代思想』8月号に、磯前順一「外部とは何か?− 柄谷行人酒井直樹、そしてクリスチャン・ボルタンスキー」という論文が掲載されている。冒頭から、柄谷の「探求1」の議論が引用されていて、なんか懐かしい。

ポストコロニアル研究について、磯前はこう書く。

かつて、タラル・アサドは私にこう言った。「なぜ日本人はアラブ人やインド人と同じようなかたちで、ポストコロニアルの問題を語ろうとするのだ。植民地を経験していない日本人は、西洋的近代化の受容の固有性においてこそ、私たちには出来ない問題提起が可能になるのではないか」。(182頁)

このアサドの指摘は、まったく正しいように思える。ポスコロ研究者が、サイードやらバーバやらに群がって超絶的批評をして悦に入っているのを見ると、ことさらそう思う。ふと思い出したのは、私が米国にいたときに、東アジア研究の学生が、福沢諭吉についての研究発表を英語でしていて、それを聞いたある教員が、「福沢は日本の近代化においては意味があるかもしれないが、国際的に見たときにどういう意味があるのだ」と質問して、それに学生は答えられず、「ほとんど意味ないです」みたいなことを答えて、教員も「そうだろう」みたいな感じになったことがあった。サッカー用語で言えば、「ドメスティックには通用しても、インターナショナルには通用しない」みたいな、そういうくくりかたで、いいのか、という思いがそれ以来ずっと頭の中を去来している。

ちなみに磯前さんの論文は力作である。