ポストコロニアルって

現代思想』8月号に、磯前順一「外部とは何か?− 柄谷行人酒井直樹、そしてクリスチャン・ボルタンスキー」という論文が掲載されている。冒頭から、柄谷の「探求1」の議論が引用されていて、なんか懐かしい。

ポストコロニアル研究について、磯前はこう書く。

かつて、タラル・アサドは私にこう言った。「なぜ日本人はアラブ人やインド人と同じようなかたちで、ポストコロニアルの問題を語ろうとするのだ。植民地を経験していない日本人は、西洋的近代化の受容の固有性においてこそ、私たちには出来ない問題提起が可能になるのではないか」。(182頁)

このアサドの指摘は、まったく正しいように思える。ポスコロ研究者が、サイードやらバーバやらに群がって超絶的批評をして悦に入っているのを見ると、ことさらそう思う。ふと思い出したのは、私が米国にいたときに、東アジア研究の学生が、福沢諭吉についての研究発表を英語でしていて、それを聞いたある教員が、「福沢は日本の近代化においては意味があるかもしれないが、国際的に見たときにどういう意味があるのだ」と質問して、それに学生は答えられず、「ほとんど意味ないです」みたいなことを答えて、教員も「そうだろう」みたいな感じになったことがあった。サッカー用語で言えば、「ドメスティックには通用しても、インターナショナルには通用しない」みたいな、そういうくくりかたで、いいのか、という思いがそれ以来ずっと頭の中を去来している。

ちなみに磯前さんの論文は力作である。