愛させる技術

 kanjinaiさんが紹介しているように、17歳の女の子の水着DVDが児童ポルノとして摘発された。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071022/1192991596
私自身、今年の春頃から機を見ては、この問題を友人と議論してきた。しかし、この問題は表現の自由、性の商品化、性の自己決定、売春婦差別、子どものセックスなど、気をつけなければならない点が多く、これという結論は出せずにいた。女の子たちとセックスを結びつけようとする、過度の扇動を批判することは必要だろう。しかし、どの角度から、どのように規制するのか、という点には慎重にならなければならない。左翼にしろ、フェミニストにしろ、反性暴力運動にしろ、動きは鈍い。

 一方で、kanjinaiさんが引用している、web上のニュースにもあるように、批判は女の子たちの母親に向けられる。かわいい娘を金儲けの手段にするのか、と責める。そしてセックスアピールをする女の子たちは、騙されているから保護しなければならない、と批判が出る。それらが、全て間違っているとは思わない。
 それでも、問題は女の子と母親たち<だけ>なのだろうか?
 少なくとも、私は今まで、「女の子は性的に魅力的でなければ愛されない。愛されなければ幸せにならない」というメッセージを浴びて育ってきた。この社会は、愛されなければ、孤独で味気ない人生になるのだ、という価値観が重視されている。そして、女の子はお勉強ができて、仕事で有能さを発揮できても、性的魅力がなければ愛されないと言い聞かされている。男の子は社会的成功が愛される条件だとみなすかもしれない。しかし、女の子たちは、社会的成功が必ずしも愛されることに有利には働かないと、(言葉ではなくても)身に沁み込ませている。
 この社会は、女の子を産んだ母親が、「あなたは、性的に魅力的でなくたって、幸せになれるのよ」と言ってやれるような社会だろうか。私には、むしろ、「性的に魅力的であることがあなたを幸せにするのよ」と(言葉ではなくても)言ってしまうような社会にみえる。また、女の子自身が、母親が言わなくても自ら、「性的に魅力的であれば、幸せになれる」と思ってしまう社会にもみえる。
 もちろん、女の子たちが水着を着て、セックスを模したポーズをすることを批判することは重要だ。だが、そのときに水着の女の子たちは、特別な存在ではない。この社会の象徴でしかない。わかりやすい形で、女の子たちが取り上げられるだけだ。
 この問題は、どの時点から批判すべきなのか。性の商品化か。商品が子供であることか。女の子が愛される条件が性的魅力に限られていることか。愛されなければ幸せになれないことか。丁寧に議論すればするほど、私たちは、自分がセックスという問題で、何を最重要視するか発見するだろう。そして、まず、その己の足元を見極めることから出発すべきだ。女の子たちと母親を批判する前に、自分がこの社会でセックスをどう考えるのかを、明らかにしなければならない。
 私は、この議論の出発点には、どんな手段であろうと、全ての存在から愛されたいと思う子どもの欲求をおきたいと思っている。他者を意識する10歳ごろから思春期にかけて、子どもは周囲に自分を愛させるように仕向ける技術を、身につけようとする。そのとき、性的魅力という手段を選ぶことはなんのタブーでもない。しかし、この手段だけにアクセスするように煽る社会の状況は批判したい。そこから始めたい。