中島義道『「人間嫌い」のルール』

「人間嫌い」のルール (PHP新書)

「人間嫌い」のルール (PHP新書)

中島さんの新著である。しかしこの人は、どういうスピードで執筆しているのだろうか。尋常ではない早さで次々と出しているが、それぞれ読み物としては面白く読めるし、知的刺激もあるので、たいしたものである。

この本の中で、中島さんは、日本人が「共感ゲーム」に陥っていることを指摘する。その箇所を引用してみよう。

(西洋型)現代社会では、とりわけ被差別者をはじめとする弱者に対する共感=同情が規範化されており、そこに壮絶な「共感ゲーム」が繰り広げられている。身体障害者の苦労に共感=同情しない輩、人種差別を受けた者に共感=同情しない輩は社会から葬り去られる。この恐ろしいゲーム状況において、多くの者は生きながらえるために共感=同情しているふりをする(演技する)のである。
 戦前の我が国で、天皇の命に共感しない者、戦争遂行に共感しない者には、身の危険があった。現代日本からはこうした恐怖政治が消え去ったと思ったら大間違い。じつのところ、現代日本においてこそ、共感ゲームはほとんど魔女裁判の様相を呈している。(62頁)

現代日本では(とりわけ公共空間では)誰もが同じ言葉を同じように語り出す。「女は産む機械」という厚生労働大臣の発言に共感するなどもってのほかである。罹災者には全身で共感しなければならず、痴漢には怒りをぶつけなければならない。すべて「決まり通りに」反応することが要求されるのだ。こうした重圧のもとで、人々はじつは共感していないのに共感したふりをする(62〜63頁)

中島節炸裂である。ただまあ、いろいろ思うこともある。「女は産む機械」発言に、反発しなかった週刊誌とかはあったのではないか。人種差別的発言のオンパレード(「××人は、こうだ!」)の週刊誌はいくらでもある。週刊誌や、その広告が存在するところは公共空間ではないのか。書店は公共空間ではないのか。また、痴漢への同情の声は、公共空間でも、けっこうあるのではないか(おもに冤罪という視点での)。

つっこみながら読めるというのが、この人の本の楽しさなのかもしれない。ただ私のまわりにはこの人の本をぜんぜん面白くないという人は多いし、反感をもつ人も多いことを記しておく。