『もうガマンできない!広がる貧困』

もうガマンできない! 広がる貧困

もうガマンできない! 広がる貧困

私は、この国で何が誇れるかといえば、現行の憲法であると思っている(もちろん、完全ではないとも思ってはいるけれども)。それも、戦争の放棄をうたった9条よりも、「健康で文化的な最低限度の生活」を保障することを誓った25条をより誇りに思う(戦争中は「健康で文化的」ではあり得ない)。しかしその25条も、現実的に破壊されようとしている。
この本は、昨今のそのような現状を、当事者の視点から描いたものである。シングルマザー、多重債務被害者、障害者、高齢者、外国人女性たちが、生き続けていくのに過分に努力しなければならない現実を淡々と描いたものだ。また、労働問題やセーフティネットなど、各テーマごとに簡潔に解説しているのもこの本の特徴である。
<「生きること」の困難さ>で、雨宮処凛さんは言う。

貧乏も、職がないのも、生きづらいのも、決して「自己責任」ではない。さまざまな政策の転換によって振り回されてきたことに怒りこそすれ、自分を責める必要などどこにもない。だからこそ、貧困に陥ってしまったら、堂々と社会保障をよこせ、と声を上げていいのだ。要求していいのだ。(p.138)

正しい、その通りだと思う。その上で、である。このことを逆に言えば、私たちは、「誰かが貧困に陥ったなら、社会保障によって救う責任がある」ということである。「自己責任がない」ことは、「生きていく上でまったく責任がない」ということを意味しない。むしろ、責任の語法を、「自己責任」というねじれたレトリックからすくい上げることが大切なのではないだろうか。
無人島で1人漂流しそこで暮らすとき、そこに人間同士の社会は形成されないから、道徳や倫理などというものは考え得ない(生物同士、ということになると話がややこしくなるので割愛)。倫理は、他者と対面する可能性としてのみ現前し、生起する。そしてそれこそが、私たちの原初的な意味においての責任である、そう私は考えている。
だからこそ、「自己責任」は「ねじれたレトリック」なのである。存在するのは常に、「他者(の生)への」責任なのである。