モーリス・ブランショ「奇異なことと異邦のもの」

 今月の『思想』(岩波書店)はブランショ特集。ブランショの「奇異なことと異邦のもの」の邦訳(訳者:上田和彦)が掲載されている。ブランショは「詩の言葉」が「純粋な断言」によって問いかける、という主題を述べている。

 問いかける仕方は、ひとつの断言する仕方である。断言する仕方は、思索する作家の場合、語調とも文体とも混同されない。
(中略)
 断言と問いかけが本質的に結びついているような作家を、わたしたちは思い描いてみなければならない。一見したところ、彼は断言すること以外の何もしておらず、その断言は論理的な進行では展開されず、あの首尾一貫した展開を拒絶さえし、それぞれの断言はひとつひとつ別のものの傍らに置かれているようなものだ。しかし全体はひとつの同じ点の周りを巡っており、その点といえば、極度の忍耐を自分のものによってのみ近づくことができ、現実には決して公にならない。この点は固定しているように見えるが、その周りで遂行される循環的運動の力によって絶え間なく位置を変える。(48〜49頁)

このあと、ブランショの、ある中心点から等距離の円の縁が全体を確定していながら、その全体である中心点自体は経験不可能だ、という独特の「近傍」についての持論を展開する。
 さらに、ブランショが言うには、「詩の言葉」は、「断言すること」の意味を問う前に、断言するのだという。「詩の言葉」は「断言すること」に意味がある、という意味づけから逃れるために、「断言すること」を拒否する、という断言を行う。だから、今日の現代詩では、「断言すること」は断言そのものではなく、「断言すること」への抵抗であり問いかけである、としている。
 この状況下で、ブランショは異邦人ですらありえない、という世界を描き出す。私が、「私は〜である」という記述が不可能であるのだから、他者との差異が何であるのかも記述できない。「私は〜である」と肯定的記述は、そこから漏れ出る「私」を生み出すだけであり、「私」それ自体を掴むことが不可能であるという、「意味」からの疎外に「私」を放り込むことになるからだ。その中で、「詩」の有り様をブランショは模索する。
 お互いに異邦のものだという認識もなく、「私」の不安をかきたてる異邦のものもいるわけでもない、いるようないないような、異邦のものの存在自体が確認できない不確定な「場」が、異邦のものの空間だという。ここで、想定できそうな異邦のものを、ブランショは否定していく。

誰か見知らぬ人がわたしたちを見つめている時、それはまだ異邦のものではない。誰もわたしたちを見つめていず、それでもわたしたちが、決まった誰かのものではなく、あらゆる主体から切り離された視線のようにしてある視線の下にいると感じる時、くだんの出来事にわたしたちは接近してはいるものの、それはまだ異邦のものではない――そうしたことから、位置づけることのできぬ全能の権力、わたしたちが見つけることもできないままにその支配下にいると感じる無名の権威、否定的な超越等々の、現代の壮大な神話が生まれる。誰もわたしたちを見つめていず、そうした視線の不在が見つめる当のものであり、その一方で、わたしたちといえば、何も見つめていない誰のものでもないこの視線のなかで自分を失う時、それはまだ異邦のものではない。(54頁)

ひたすらに否定することしかできない、確定不能だけれど、あるような、ないような、でもそれこそが存在というものの本質を規定するようなものが、異邦のものである。そして小説(詩)は「異邦のものの圏内にある」(55頁)というのが結論であった。

 デリダにしろ、ブランショにしろ、文章を読んでいるうちは「わかる、わかる」と思うのだが、それが何かと聞かれると答えられない。まさに文学の領域。どうせ、思考の言語では答えられない。しかし、その答えられないギリギリの縁を、思考の言葉で囲い込む作業はスリリングだと思う。私は好きです。*1

*1:好き、以上に理解とか、解題とかまではなかなか到達しませんが。