赦しについての覚え書き2

 先日起きた、息子が母親の頭部を切断した事件に関して、川村毅がブログで触れている。

こうした殺人に関して「あってはならないことです」とコメントするのは当たり前のことで、「あってはならないこと」なのだが、なぜ起こったのかかを善悪という概念を超えて考えるのが演劇なのだということを大学の一回生の前でしゃべる。

川村毅ニューズウィーク」『彷徨亭日記〜川村毅の日記〜』(http://kawamura.eplus2.jp/

私は、「赦し」というのは、「あってはならないこと」という地平を崩す行為*1ではないかと考えている。
 正義を求める場(刑事裁判)では、間違いなくこの殺人は「あってはならないこと」である。「あってはならないこと」を行い、秩序を乱したので、制裁を加えられるだろう。*2
 しかし、赦しが行われる場では、ただ「ある」ということが問題になるだろう。たとえ、赦しが行われたとしても、その殺人の悲惨さや残酷さは少しも減らされないし、恐怖もなくならないだろう。ただ、このような「あってはならないこと」は「ある」のだということを受け入れるのである。
 善悪という価値判断を含まず、ただ「ある」ということを認識すること。それは、人間にとって不可能だろう。人間が主観を超えることはできない。それでも、ただ「ある」という次元には到達できない、ということが認識されたとき、初めて「ある」という次元があることが認識される。それがデリダの言う「まさしく赦しが不可能に見える瞬間にこそ、その純粋な可能性がそのものとして現われてくるのではないか、ということです」(210頁)ではないかと、今のところ予測している。
 このような殺人は「ある」し、これからも「ある」し、現在も行われていて、それは「あってはならない」と批判しなければならないが、それでも「ある」と認めること。それは当たり前ではないか、と思われるかも知れないが、当事者(加害者/被害者)の多くが、困難さを感じる問題であるだろう。それは、自分はそういう「あってはならないこと」の渦中にいるということを引き受けるには、困難があるということだ。
 そのとき、既に加害者が改悛しているかどうかは、問題ではない。被害者の苦難の一つは、「あってはならないこと」が「ある」ということを知ってしまうことだ。むしろ、改悛してしまうことにより、「あってはならないこと」が「あってもしかたないこと」「あったが理解できること」に変形してしまうと、そこで被害者が受けたインパクト(「あってはならないこと」)が捨象されてしまうのではないか。
 私は実際に「赦し」を遂行している人とやり取りしたことはほとんどないが、ある激しいDV下にあったご夫婦のお話の中で、赦しの過程では「加害者もまた被害者を赦すのだ」という話が出たことがある。現在お二人の間にDVと呼ばれるような暴力はなくなっている。赦しの過程で何が起きるのか、可能なのかは、もう少し精査したい。

言葉にのって―哲学的スナップショット (ちくま学芸文庫)

言葉にのって―哲学的スナップショット (ちくま学芸文庫)

*1:私はこっそりこの赦しを「存在論的赦し」と呼んでいる。かっこつけすぎかしら?

*2:誤解しがちだが、刑事裁判で加害者を訴えるのは、被害者ではない。検察(=国家)である。