錯綜する「女らしさ」

 先日、友人が家に遊びに来た。彼女は大変カワイイ女子(ヘテロ)である。性格や仕草もカワイイが、それ以上に顔がカワイイ。しかも美容関係の仕事に就いているので、カワイサを際だたせる術も持っている。もちろん、私の友人の中でも1,2を争うモテ女子である。*1男がとぎれない。いいな、と思った相手を好きになる前に、告白されるという。常に、愛され側。すごいなあーと思っていたが、彼女は真剣に悩んでいた。
「もっと地味でいたい・・・カワイイ女を求められる。」
彼女は、そんなつもりはないのに、男に媚びる甘え上手、と周囲から言われてしまうことに傷つき、人間不信にさえなったという。彼女の中には、幼い頃からずっと抱えてきた、ジェンダー違和や、女としての身体へのコンプレックスもある。「女らしい」から愛されながら、「女らしさ」への苦痛も持っている。*2

 そうこう考えていたら、おもしろい記事があがっていた。

「女らしくしたくない」女子を昔から好む癖があるんだけど、

その実中身は全然普通の女子だったりして、凄く凹む。

はてな匿名ダイアリー」(http://anond.hatelabo.jp/20070506165919

私は、てっきりこれは「女役割」を拒否するフェミニストが好みのタイプだが、実際にはそうじゃなかったということだと思い込んだ。*3一緒に、ジェンダーの問題に取り組みたかったのかと。*4それなのに「私は女らしくするし、あなたは男らしくしてね。」と言われてガーン、みたいな。しかし、そういう解釈はメジャーではなかったらしい。言及している記事はこんな感じ。

女子らしくしたくない、というのは一種のコンプレックスみたいなもんなので、この人はコンプレックスのある人が好きだということなのか。でなければ、本当は女嫌い(味噌)かのどちらかだな。女嫌いなのに女性と付き合うなんていうのは相手の女性をバカにしているし、相手にも最悪な思いしかさせないのでやめたらいい。ようするにたちが悪い。

nogamin「『女らしくしたくない』女子を昔から好む癖がある人へ」『庵[ngmn]』(http://fragments.g.hatena.ne.jp/nogamin/20070508/p3

「女らしさ」を拒否することと、「女であること」を拒否することは、私の中では別なので、匿名ダイアリーを書いた人へ、そんなに腹は立たなかった。さらに、nogaminさんのこの記事に言及しているこちらの記事を読んで、少し考える。

例えばメシの会計は割り勘で良いよね、とかスカート履くと女装って思うとか、そういう発言をしているような-例えが貧困過ぎですみません-振る舞いを日常的にしているのに、いざ付き合ってみるとスカート履いてくるわ、奢りじゃないとわかると「私の価値が下がった」みたいな事をいうわ、みたいな、そんな事を言いたいんではないかと思うのですね。

ululun「『女らしくしたくない』女子」『煩悩是道場』(http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070508

私は、この話に出てくるような女子である。(奢ってくれ云々の話は経験がないが、)スカートを履くと女装だと思うが、スカートを履いていくる。ジェンダー違和がないわけじゃない、と言いながら、花柄のワンピースを着用する。それなのに、「あなたは昔っから、そういう[女らしい]服装が好きよね」と言われると、いてもたってもいられなくなる。「別にこの服装を選んだからと言って、『女らしさ』の全てを引き受けているわけではないですよ。」と説明しそうな衝動に駆られる。女装の快楽を享受することと、「女らしさ」に無抵抗になることとは違う。

女性があるひとつのテイストにとらわれて、同じ傾向の服ばかりを着用している、そしてそれが彼女自身の内面をあらわすものとなっているはずだ・・・という固定化はロマンティックではなるけれども実際それほど単純な話ではない。この分類を見るにつけ、「わたしはどこにいるだろう?」と自分の位置を考えてしまうが、分類内を移動することなく過ごせる人がいるなどというのは少し考えものではないか。どこに行って誰に会うのかによって、程度の差こそあれ着ていく服装に気をつかうものだろう。

小山有子「女性とファッションの類型化再考――『かまやつ女』という評価――」『女性学年報 第27号』女性学年報編集委員会、2006年、187頁

私はただ、花柄のワンピースを着たかったのだ。そして女の記号を身にまといたかった。だが、私のその日の振る舞いが女らしかったのかどうかは、覚えていない。少なくとも、「女らしくしよう」と特別に意識してなかったことは確かだ。日頃の評判を聞くと、私は「女らしさ」に縁遠いようなので、意識しなかったということは女らしくなかったのではないかと思う。
 例えば、匿名ダイアリーを書いた人は、好んだタイプの人が、私のようなパターンの行動を取ると、凹むのだろうか。――凹むなら、それはそれでいいと思う。少しでもジェンダー違和を持っている人*5に付き合うのは大変だ。凹んで、それからもう一度関係を取り結べばいい。何度も取り結ぶうちに、「普通の女子」が直面する「女らしさ」との格闘が見えてくると思う。

 「女らしさ」は錯綜している。全面的に拒絶することも、受け入れることも難しい。この人に見せる「女らしさ」と、あの人には見せたくない「女らしさ」がある。今日、「女らしい」と言われて嬉しい気持ちも、次の日に、違和感となって鎖のようにまとわりつくことがある。でも、その揺らぎを丁寧に追って、おたおたすることは、私にとってそんなにイヤなことではない。そして、そういう面倒くささに付き合うのが、そんなにイヤでない男子がいることも、私は知っている。
 友人がそういう男をつかまえられるといいな、と思っている。

*1:私の友人にはモテ女子が多い。林真理子的感性が私にあるからだと思う。林さんのことは全く好きじゃないんだけどさ。

*2:まさに、「女たち」が長年取り組んできた主婦と娼婦に引き裂かれ、「どこにもいない女」になる苦痛である。「あんた、田中美津を読みなよー」と思わず言いそうになりました。

*3:ついでに作者はヘテロ男子の立場で書いていると思った。

*4:そういうヘテロ男子がいないわけではない。

*5:そうでないと言い切れる女子を探すのも案外大変だ。