カチャ・クルマン『カチャ・クルマン 32歳』

 本屋さんで「産まないって、決めたわけじゃなくて…」という表紙のコピーが気に入ったので、買ってみた。ドイツ版『負け犬の遠吠え』とのこと。

カチャ・クルマン32歳―産まないって、決めたわけじゃなくて…

カチャ・クルマン32歳―産まないって、決めたわけじゃなくて…

 1970年生まれでジャーナリストのクルマンは、フェミニズムが当たり前にある時代を生き、時に「女性解放(エマンツェ)」をイカガワシイと見下してきた。性別に関わりなく、自由になんにでもなれると、生産と消費に従事しながら邁進してきたが、ハッと気づくと30歳。出産という、自分の生物的性差に基づく人生の選択を突きつけられて、改めて自分が女であること、今まで生きてきたことを、問い直すことになる。

 父親世代の男たちの中に、「再出発」とか「激発」みたいな思いが突如として満ちる。その結果よくあるのは、娘ほどの年齢との情事。あるいは新しい趣味を始めるとか(極端に手造りっぽい趣味)、アルコールや切手収集の中毒になる人もいる。突然のように襲う叫び。死への不安。これマニフェストのように具体的に問い掛けてくる。
「おまえ、ちゃんとやってきたのか?」
「すべての可能性を試して生きてきたんだろうな」
「俺は、自分が望んだように生きてきただろうか……」
 今、中年の危機が二〇年も早くわたしたちを襲っている。ありとあらゆる可能性を試してきたわたしたちにとって、やりたいことをやってきたのかという問いは、かなり早期に成立することになる。実にリアルじゃないですか。
(略)
 どうしてだろう?こんなに早く中年の危機に見舞われるのは……。
 たぶん、四〇歳を迎えるまでに子どもの問題に決着をつけなければならないからだ。子どもを持つと、気ままな生活やモード追いの回転木馬にブレーキをかけなければならない。子どもを持つか持たないか。――おそろしいまでに自己自身を激しく苛むアリーたち*1。おそらく同世代男のどんな自己攻撃より、あるいは、父親たちが若かった頃の心情的葛藤よりも激しく自分を責めている。

(81〜82頁)

 先日、若い男とオッサンと、女たちで飲んでいた。子を産んだ女が、
「生物的にリミットが迫ってきているのに、出産という選択肢を先延ばしするのは逃げでしかない」
と言いはじめた。隣に座っていた若い男が、
「その言葉を、俺の彼女に言ってやってください。俺は子どもが欲しいんです。絶対に育児するし。」
と力説する。私ともう1人の若い女が、
「子を産む選択ができることは知っている。けれど、それを選ぶ勇気がない。」
と小さな声で言った。オッサンが私たちのほうを向いて、
「もちろん、迷うと思うし、選ばないこともできる。でもね、子育てって、本当に面白いから是非やってみてもいいと思うよ。失うものより得るもののほうが、私は多かったよ。」
と静かに言った。
 私は前にも、別のところで書いた(http://d.hatena.ne.jp/font-da/20070427)けれど、フケ専でオッサンを好む。オッサンは(世代的なものもあるだろうが)よく悩んでいる。そろそろ、定年後の人生も見えてきている。親の介護に疲れ、子の巣立ちに焦り、自分の人生を振り返り始める。私のように、オッサンを求める若い女も、若い女を求めるオッサンも、不必要なほどに自責の念と焦りに駆られているお互いを、相憐れんでいるのかもしれない。オッサンは説教することで、これまでの人生を肯定的に語る場を設け、私は説教されることでこの人生を肯定する可能性を得ようとする。

 もしだれかがわたしに、「お子さんは欲しいのですか」と聞いてきたら、なんと答えればいいんだろう。子どもができたらどうなるかということを頭に思い浮かべることができるけれど、子どもなしの一生も充分に描くことができる。子どもを育てるのにどのくらいの愛が必要なのか、本当のところ何もわかっちゃいない。隣近所で子どもの泣き声がすると、それが仕事時間と重なると逃げ出したくなる。忍耐がない。日曜は遅くまで寝ているのが好きだし、良き母になれるかわからない。
 それに、自分が本当にちゃんとした女なのかもわからない。ちゃんとした女って何なのかが、そもそもわからない。

(218頁)

 子を孕むことは、自分の体の中に、他者を仮住まいさせることだ。そして、子を産むこととは、退去した他者を、自分の保護下に置きながら、自分とは別の存在だと認知することだ。本気で子産みについて考えれば考えるほど、泥沼にはまる。何も考えずに産めばいい、のだろうが、一度考えた後に、もう考えなかった状態には戻れない。
 この問いに付き合ってくれる私の同世代の男は多いのだろうか。20〜30代女性向けの漫画雑誌『KISS』で連載している米沢りか『30婚miso・com』では、こんなエピソードが語られる。理想の恋人ができた主人公(30歳ヘテロ女)は、結婚の準備を着々と進めていく。その中で、お互いの親との同居や介護の問題に直面し、結婚に不安を感じ始めて恋人に相談する。ところが、恋人の側は「うまくいっているんだから、考えなくてもいいじゃない。今を楽しもうよ。」と提案してくる。結局、それを糸口に、お互いの結婚観がすれ違っていることに気づき、別れることになるのだ。「男はいつも大丈夫だというが、何も考えていないだけで、その場しのぎだ」という批判が、登場する女性キャラクターたちによって語られる。

30婚 miso‐com(1) (KC KISS)

30婚 miso‐com(1) (KC KISS)

 クルマンはこう言う。

 パートかフルタイムか、いつ一時退職するか、どう復職するか、あるいは永遠におさらばか――。なぜ女だけが、ああでもないこうでもないと考えるんだろう。なぜ女ばかりが出産を自らにひきつけて考えなければならないんだろう。子どもが生まれれば社会保障は御の字じゃないの。女だけの話じゃないはず。
 女と同じように、立ち止まって考える「新しい男」がいるのか。それとも、もうすでにそういう男に出会っていたのに、それに気づかなかっただけ……なのかしら。

(112頁)

もちろん、少子化対策に、保育所や託児施設を充実させることは絶対に必要である。しかし、それだけでは、少なくとも私は子産みに積極的になれない。私だって、「産まないって、決めたわけじゃない」んだけれど、産む予定は今のところない。

*1:クルマンは自分の世代を「アリー・myラブ」のアリーたちと呼んでいる