「モテる男」について再度考えてみた

4月14日に「モテとはひとりの女を大切にすることである」というエントリーを書いた。みなさんからいろんな反響があったので、その続きを書く。

それに関連して、sugitashunsukeさんのところで、非モテ1.0 2.0 3.0という議論があった。
http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070427
これを参照しながら考えていきたい。

まず「モテる」とはいったいどういうことか、について、いくつかのとらえ方が現存する。私はそれをだいたい3つにわけて考えてみてはどうかと思うのである(上記エントリーもその考え方に立っているようだ)。

まずは、もっとも一般的な「モテ」の概念がある。これは、とにかく女に好かれまくって、つねにいろんな女と恋愛状態になれる・恋愛状態であるということを意味する。

モテ・1
モテる男とは、つねにいろんな女と恋愛・性愛状態である、あるいはその気になればいつでもいろんな女と同時に恋愛・性愛状態になれるような男のことである。

このような男になりたいという願望をもつ男はたくさんいる。その「願望」の根本にあるのは「権力欲」である。また、この意味でのモテが、もっとも一般的なモテ理解であろう。

ところで、モテをまったく異なった意味で使う人たちがいる。それはいままでほとんどまったく恋愛をしたことがなく、とにかくこの状態から脱したい、と強く望んでいる場合である。彼らの言う「モテたい・・・」は、いまの状態から脱出してとにかく恋愛経験をしてみたいということである。

モテ・2
モテる男とは、女と恋愛経験をしたことがあり、これからもすることが現実的に可能な男のことである。

この場合、モテる男になりたいという願望とは、要するに、一度でいいから恋愛経験をしてみたいという願望のことである。

ところで、私が前回のエントリーで提唱した新しいモテは、上記のいずれとも異なる。それは、

モテ・3
モテる男とは、「自分の好きなひとりの女を恋人として大切にすることができる」男のことである。その副次的効果として、「ただそこにいるだけで、まわりの女たちに、異性としての快い刺激を与え、かつ、安心させることのできる男」に、長い時間をかけて徐々に近づいていくことができる。だが恋人・性交相手は一人である。

モテ・3が、モテ・1と決定的に異なるのは、自分の好きなひとりの女を、自分のひとりの恋愛相手・性交相手として大切に守る、という点である。その副次的効果として、まわりの女に人気が出てくるが、恋人や性交相手を増やそうとは思わないのである。

モテ・1は、恋人や性交相手が増えていくこと、あるいは次々と乗り換えていくこと、あるいはその気になればそれが可能になるという状態の積極的確保を目的とする。

モテ・1は、数多くの恋人や性交相手に恵まれるが、相思相愛のひとりの恋人には恵まれることが少ない。であるがゆえに、私はモテ・1ではなく、モテ・3のことを、真の「モテ」と呼びたいのである。

そのうえで、いくつかの疑問に答えておこう。まず、モテ・3ではまわりの女に人気が出てくるというが、それは単なる「友だち」としてなのではないかという点がある。それはそのとおりである。ただし、異性としての快適な刺激を与えあえるような友だちである。それは素敵なことじゃないか。

また、以前のコメントにもあったが、「ひとりの女を恋人として大切にすることができる」ように<ふるまえる>男のことをモテる男と呼ぶのだという意見がある。つまり、「きみのことだけが好きなんだ」と次々と女に言い寄って、女を次々と落としていく男、これがモテる男だろうというわけである。それに答えて言えば、そのような男はモテ・1の男である。そのような男は、次々と女を落としていくことはできるかもしれないが、相思相愛のひとりの女を恋人として大切にすることはできにくい。私はそのような状態をモテとは考えない。私がモテる男だと考えるのは、ほんとうに、ひとりの女を恋人して大切にすることができ、恋愛状態を維持できている男のことである。

もし君たちがモテたいのなら、モテ・3を目指すのがいいのではないだろうか。モテ・2も、モテ・3へとつながることを目指すのがよいのではないか。そして、「モテ・1が男のロマン」とかいう幻影から解放されるのがよいのではないのだろうか。

私のような考え方を激しく批判してくる人たちがいる。ひとつは、「それは一夫一婦制的桎梏の強制であり懐古的反動勢力の策動である」という批判である。団塊の世代から言われることがあるが、若い人たちでもそう思っている人はいるのかもしれない。彼らの理想は自由(婚外)恋愛・フリーセックスらしいのだが、私からすれば時代錯誤である。現代とは、60〜70年代的フリーセックスの廃墟からいかにしてもういちど性愛を再興すればよいかという時代なのである。もうひとつは、まったく逆に、「モテよう!」と主張すること自体が、恋愛至上主義恋愛資本主義の策謀なのであり、非モテの人たちを搾取しながら展開する階級的収奪の運動にほかならないとするものである。これに対しては、たしかにそういう面はあるかもしれないと思う。だから私は「モテなくてはならない」「恋愛しなくてはならない」とは主張しない。「モテたいのなら、こういうふうにしてみたら?」という言い方をしていこうと思う。そしてその言い方をメタ的な視点から相対化する姿勢を見失わないでおきたいと思う。

たぶん、モテ・3に問題があるとしたら、それは、人間の心の中にあるであろう権力欲、つまり「いろんな異性に性的にアピールしたい、たとえ自分にパートナーがいたとしても、他の異性からちやほやされたい」という欲望を、過度に抑圧することになるという点だろう。だが、その抑圧からの解放と、好きな人との関係維持のための自制とのあいだの闘いこそが、エロス的存在としての人間の生の醍醐味である。それを心ゆくまで楽しめばよいのである。

ところで、モテ本をいろいろと研究してみたが、そのなかでもっともマシな本である富田隆の『「モテる男」40のマニュアル』にも同様の見解が見られる。

つまり、ほんとうにモテるというのは、数多くの女性を相手にすることとは違うのである。このあたりを、「モテない」と嘆く男性は誤解しているのではないだろうか。・・(中略)・・一人の"いい女"を見つけ、彼女にモテるようになるにはどうしたらいいかを考えることがたいせつだ。自分にとってのいい女にモテる男こそが、ほんとうのモテる男なのである。(19頁)

思うのだが、恋愛をしながらある程度人生を生きてきた人間なら、だいたいこういうことを考えるようになるんじゃないのだろうか。だからこういう考え方自体は別に新しいものではない。それを、まだ恋愛の海にこぎ出したばかりの若い男子たちに、どうやって伝えていけばいいか、というあたりが課題になるのだろう。

モテ本のほとんどは、とても面白くない。とくに女性が書いたモテ男本は、要するに「私はこういうふうに男に扱われたい」という個人的なわがままの羅列の観を呈していることが多い。必要なのは、同じ男の視線から、物事の条理を説く本だろう。上記の富田の本は例外的によくできているが、しかし著者の年代(1949年生まれ)のせいか、フェミニズムの洗礼を正面から受けた痕跡がなく、したがって権力関係への視線が乏しく、女性観が大時代的であり、心理的テクニックに限定されている。フェミニズムジェンダー論を通過した議論が登場しなくてはならないと思う。

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追記:続きを書いた。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070609/1181322127