やりまくらないでもフェミニスト

 友人と、パット・カリフィア(アメリカのレズビアンフェミニスト。SM愛好家で70年代からフェミニズム内で、フェミニズムの不正を告発する、というスタイルをとっていた。)『パブリックセックス』を読んでいるときに、「非一対一(アン・モノガミー)」という一文を、「反一対一(アンチ・モノガミー)」と読み間違えて笑われたことがある。それくらい、カリフィアの文章は刺激的だ。
 カリフィアは自分の愛する人への所有欲を隠さない。「私が私である」ことの孤独を埋めるために、愛する人に自分を映し込み、切り裂き一つになりたいと思う自己愛も隠さない。「あなただけを愛する」と誓うことの快楽も隠さない。その上で、カリフィアはこう言う。

 ほかの女が彼女に欲情するところを見ると、わたしはうれしくなる。それは、彼女の質の高さと邪悪さを認めたわたしの判断力を、確認させてくれるものだからだ。「遊んでおいでよ」とわたしは彼女に言う。それが私が彼女を所有していることの証になる――自分が持っていないものは誰にも手放すことができないからだ。(略)非常に傲慢な言い方をすれば、こうすることでわたしは、自分が選択肢を持っていることを彼女に忘れさせないでおける――わたしにはほかに行くところもあれば、ほかにセックスする人たちだっているのだ。これがわたしたち双方に、お互いを所有していることがあたりまえではないことを自覚させてくれる。


パット・カリフィア「非一対一(アン・モノガミー) 愛情あるセックス・パートナーとごまかし合う恋人たち(1984)」『パブリック・セックス』東玲子訳、青土社、1998年、315頁

カリフィアがこの文章を書いた背景には、レズビアンの中で、モノガミーが神聖視されていた時代性がある。そして、HIV感染を防ぐために、不特定多数とのセックスを避けるための「健康上の理由での」モノガミーへの反感である。(カリフィアは繰り返しHIV感染を防ぐためのセーファーセックスの励行を奨めている)
 カリフィアは、決してモノガミーを否定しているわけではなく、モノガミーを押しつけられることへの抵抗を論じている。それでも、異性愛者であり、一対一で付き合っている私は居心地が悪くなる文章だった。カリフィアの描く、ポリガミーの世界は魅力的だったし、このような関係が多数になる社会を構想することは、私にとって楽しい。でも、政治的理由でセックスオリエンテーションを変更することこそ、カリフィアがフェミニズムを批判してきた点である。

 フェミニズム業界には、なんとなく、アンチ・モノガミーの雰囲気が漂っている。私の被害妄想かと思いきや、ラブピースクラブで発行しているメルマガでも話題にあがった。(無料で配信しているので、こちらで登録できます→http://www.lovepiececlub.com/ 「とっちーコラム」というコーナーで取り上げられていました。バックナンバーが読めないのが残念。)私の中にもこんなヒエラルキーがある。

バイセクシュアル(ポリ>モノ)>レズビアン(ポリ>モノ)>ヘテロ(ポリ>モノ(共働き>片働き))

私は自分が一番右端であることが、非常に負い目になる。これは、右から順番に社会的に褒められやすいヒエラルキーだからだ。フェミニズムはそういう、社会的に褒められる(特権を与えられる)ことへの抵抗を示し続けているだけに、右端に位置して既得権益を得ている私としては、肩身が狭い。男に養われ、男に支配され、男の価値観に奉仕する女の私、という自己認識にさいなまされる。
 もちろん、実際に何か言われるわけではない。これは、私の「内なるモノフォビア」に過ぎない。やりまくったら、男女差別から解放されるわけでもない。私が、バイセクシュアルやポリガミーを勝手に神聖視することは、向こうだって迷惑するだろう。社会を変えることと、私が変わることは別だ。社会を変えるためには私を変えなくてはならないし、私を変えるために社会を変えなくてはならないだろう。しかし、その私と社会の接点を見いだして行かなくては、脳内解決に終わってしまう。

 kanijinaiさんが下の記事でこう言っている。

私のような考え方を激しく批判してくる人たちがいる。ひとつは、「それは一夫一婦制的桎梏の強制であり懐古的反動勢力の策動である」という批判である。団塊の世代から言われることがあるが、若い人たちでもそう思っている人はいるのかもしれない。彼らの理想は自由(婚外)恋愛・フリーセックスらしいのだが、私からすれば時代錯誤である。現代とは、60〜70年代的フリーセックスの廃墟からいかにしてもういちど性愛を再興すればよいかという時代なのである。


kanjinai「『モテる男』について再度考えてみた」(http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070501

一部のフェミニストもまた、フリーセックスを提唱してきた。性欲を否定され、婚姻内でのみのセックスを強制されてきた女性史を振り返れば、それは必要な提唱だった。(まだまだ、必要な面も多い…)私がこうやって論じることができるのも、一部のフェミニストが、セックスについての話題を口に出すことすらはばかられた社会を変えたからだ。その功績に敬意を払いたいけれど、では、全てのフェミニストが解放されたかというと、そんなことはないだろう。フェミニズムクィア理論と出会い、新しい問題は次々と押し寄せ、また混乱し、セックスについて語り始めている。

 冒頭で引用したカリフィアは、1997年に『セックス・チェンジズ』を刊行した。そして、2003年の改訂版で自らが性別を移行(トランシジョン)したことを、付け加えた序文で語っている。カリフィアは、一章の「トランスセクシュアルの歴史」で性別を移行したMTFヨルゲンセン、モリス、FTMのマルティノを取り上げている。丁寧にこの人たちのくぐり抜けた困難を追いながら、それでもMTFFTMの間のジェンダー差をカリフィアは指摘する。マルティノの語る自伝には、移行(トランシジョン)がセックスの中での満足が多く書かれ、ヨルゲンセン、モリスは徹底的に語らない。

 これはおそらく単に、わたしたち皆が、男性あるいは女性としてジェンダーアイデンティティを構築する(あるいは構築されたものと受け取る)時の違いを反映したものだ。女性であるためには、単に「男性ではない」ものになれば良い。女性イメージを示すには、相当な努力がともなうのだが、このエネルギーは実際的な仕事と認められるわけではないし、真面目な才能や知性の現われと受け取られることもない。男性として認められるためには、強く公然と女性性を拒絶しなければならないし、さらにそう認められるためには努力を怠ってはならない。わたしたちは、「男であれ」と言うが、同じような意味で「女であれ」とは決して言わないのだ。


パトリック・カリフィア『セックス・チェンジズ』石本由+吉池祥子他訳、作品社、2005年、125頁

この男女の非対称性を、常に既に念頭に置いて、私はもう一度セックスについて語りたいと思う。女性が「私はやりまくる」ということが、政治的にラディカルであった/なってしまった時代の後で、何が語れるのか。そして、未だに「私はやりまくる」といわなければ、女性が貞淑な処女という女性像を引き受けたと見なされる、その社会状況の中で、「私はやりまくる」という以外に、どんな社会を変えていける言説が見出せるのか。もっと単純に言えば、やりまくらなくても、男になめられない社会をどうやって作れるのか。きっと、女だけの努力では作れないと思うし、もう男の中にも作りたいと思う層はあるはずだ。(60〜70年代のフェミニズムの最大の功績は、この層を男の中に作ったことなんじゃないか)