社会学と「生き方としての学問」

友人から次の本を紹介されたので、入手してみた。非常に興味深い本であった。

高齢化社会と日本人の生き方―岐路に立つ現代中年のライフストーリー

高齢化社会と日本人の生き方―岐路に立つ現代中年のライフストーリー

小倉康嗣さんは、みずからの社会学のスタンスを、こういうふうに述べている。

本書の底流にある〈生き方としての学問〉とは、世界と自分(あるいは認識論的次元と存在論的次元、学問形成と人間形成)とを切り離さない学知のあり方の探求である。さまざまな葛藤に直面しながらも、しなやかに生き抜いている現代中年の人びととの出会いのなかで、私自身、みずからの世界観がゆさぶられ、みずからの「生き方」を問い、みずからの「生き方」が触発され、そして変容していった。本書には、そんな私自身の〈生き方としての学問〉生成の痕跡も滲み出ているであろう。そしてそれも、まぎれもなく人間生成・社会生成のひとつの「現場」にほかならない。(vi頁)

私にとって社会学とは、「生きる」ということと不可分であるように思う。自分自身が社会学のフィールドそのものであると言ってもいい。私のなかでは、つねに自分という人間形成(生活経験)と学問形成(研究実践)とが分かちがたく結びついており、それが、私が社会学という学問を実践する原動力となってきた。また、そんな生活経験と研究実践との再帰的(reflective)な関係のなかで、みずからの生(life)が生成されていっているようにも思う。その意味で社会学という学問は、社会を映し出す鏡でもあるが、まずもってその社会のなかで生きている自分自身を映し出す鏡である。この社会のなかで生きている自分自身と向き合わずして、社会を切実に照射することは、私にはできない。(497頁)

小倉さんがここで述べていることは、私の視点から言えば、社会学に対する「生命学的アプローチ」以外の何ものでもない(「生命学とは何か」(http://www.kinokopress.com/civil/0802.htm)参照)。けっして自分を棚上げにしない知のあり方、知ることと生きることの相即、というのは生命学の基本的な発想だが、小倉さんの社会学のスタンスは、まさにこのようなものとなっている。「生きている自分自身と向き合わずして」というあたりは、まさに生命学的アプローチだと膝を打ちたくなる。現代の社会学で、このようなスタンスを公言しているものは、どのくらいあるのだろうか? 私は社会学は詳しくないので、ぜひコメント欄で教えてほしい。思うに、社会学にはこのようなスタンスは潜在的にはたくさんあるのだが、なかなかそれを公言できにくいということなのかもしれない(なぜなら「客観性」が失われるから)。エスノや臨床社会学にはこのようなスタンスのものはあるような気がする。「自分と向き合う社会学」「生き方としての社会学」ということを、レトリックとしてではなく、方法論としてもちいる社会学があるとしたら、それは、もう生命学とつながりあっていると私は思う。社会学と生命学の架橋ということを、本気で考えてみたい。

小倉さんが、このようなスタンスをとるに至った理由の一つは、次のようなものである。

私がこのような社会学観を抱くにはそれなりの理由がある。それは、私の身体に刺さった「棘」である。その「棘」とは、私がゲイ(同性愛者)であるということであり、ゲイであることで人生と、そして世間と格闘せざるをえなかった経験である。(498頁)

小倉さんの言う「棘」は、私の言うところの「破断」(上記論文参照)にひょっとしたら通じるものがあるのかもしれない。このような「棘」や「破断」を根本動機として隠し持ったとき、社会学(あるいは学問全般)に、生命学的アプローチの萌芽がやどるのだろうか。私は『感じない男』で自分自身の性的な「棘」について語った。それは小倉さんとはまったく違うものであったのだが、それを起点として学が立ち上がることがあり得るということを身をもって知った。

などということを思いながら本書を読んだ。個人的には「補論」で述べられたことを本格的に展開したらどのようなものができあがるのか非常に興味深く思った。期待したいと思う。