ハンナ・アレント「道徳哲学のいくつかの問題」

遺稿集所収の論文。

責任と判断

責任と判断

ニーチェはみずからモラリストと名乗っていました。そして実際にモラリストだったのは間違いありません。しかし倫理に関するかぎり、生命を最高善とすることには問題があります。キリスト教的であるかどうかを問わず、すべての倫理は、死すべき人間にとっては、生命が最高善ではないことを前提とするものだったからです。そして人間の生においては、個別の生命体の存続と繁殖よりも重要なものがつねに存在するのです。
何が重要とされるかには、時代ごとに大きな違いがありました。ソクラテス以前の古代ギリシアで重要だったのは、偉大さと名誉でした。ローマで〈徳〉とされたのは、国家の永続でしょう。現世での魂の健康さと来世での魂の救済が重要だった時代もあります。自由や正義が、あるいはその他さまざまな理念が生命よりも重要とされることもありました。
どのような〈徳〉も、こうした事柄や原則に依拠するのですが、これは人々が考えを変えれば、すぐ別のものに代えられてしまう価値にすぎなかったのでしょうか。ニーチェが指摘したように、〈生命〉そのものという究極のものの前では、これらは放り捨てられてしまうものなのでしょうか。たしかに一部の人々の行動によって、人類の存続そのものが脅かされることもありうるなど、ニーチェは想像もしていなかったでしょう。そしてこの稀な出来事を前にしては、人間にとっての最高善は、〈生命〉の維持であり、世界と人類の存続であると主張することもできるでしょう。
しかしそれは、いかなる倫理も道徳性も、もはや存在しなくなるということにほかならないでしょう。そして原則としてこの思想は、ラテン語の古い疑問、「世界が滅ぶとも、正義はなされるべきか」という問いで、すでに予測されていたものです。カントはこの問いに、「正義がなくなれば、人間が地上で生きていく価値はなくなる」と答えたのです。
このように、近代において唱えられた唯一の新しい道徳的な原則は、「新しい価値」を主唱するものではなく、道徳性そのものを否定するものとなったのでした。もちろんニーチェにはそのことは知りえなかったことです。とはいえ、道徳性というものがどれほどお粗末で、意味のないものとなってしまったかをはっきり示したのは、ニーチェの変わらぬ偉大さです」(pp.65-66)

つまり、アーレントによれば、ニーチェは〈徳〉を批判するためにこそ、〈生命〉という価値を持ち出し、称揚したのだということになる。アーレント自身は、「人間の生においては、個別の生命体の存続と繁殖よりも重要なものがつねに存在する」と述べている。これは、「人類は存続せよ!」と説いた、同じハイデガー門下のハンス・ヨナスへの批判であるとも受け止められるだろう。
「生命が最高善か」という問いを問うということ、それ自体を問うことが必要ではないのか。なぜなら、「生命が最高善か」という問いには、誰もが「答えられない」だろうと考えるからだ。もちろん私も答えられない。そして、「答えられなくてよい」と思う。どうしてかと言えば、この問いに肯定的に答えるならば、「それでは生命以外の〈徳〉は必要ないのか」という追撃を許し、否定的に答えるならば、「では今すぐ生命より重要なもののために死ねるか」という追撃を許してしまうからだ。
この問い、すなわち古来よりなされてきたであろう「生命は最高善か」という問いは、罠ではないのだろうか。この問いには「答えようがない」のだ。そして、「生命は最高善であるか」という問いを問うこと自体を無効にしていかなければならないのではないだろうか。自由や正義は、(十全な)生の(享受の)ためにこそ必要なものだ。「生命は最高善か」という問いは、真摯なように見えて実は八方ふさがりの「行き止まりの問い、思考停止に陥れる問い」ではないのか。アーレントが生きていたら、そのように応答してみたかった。