「生命学」という発想について

kanjinaiによる「生命学とは何か」という論文が、4月1日に刊行されました。

生命学とは、自分をけっして棚上げにすることなく、生命について深く考え表現しながら、生きていくことです。「生命学」という言葉を発案してからはや20年、ようやくここまで言葉を絞り込めました。これも、一緒に考え続けてくれた仲間がいたからです(感謝)。

生命学は、それぞれの生の現場で、それぞれの形で深められるべきものなので、誰にでも通用する<普遍的な>生命学というものはありません。この点が、自然科学とは根本的に違ってきます。

Aさんの生命学、Bさんの生命学、・・・・・・というふうに。そしてそれでよいのです。それでもなお「学」なのです。

kanjinaiは、kanjinai独自の生命学を深めていくことになるわけで、それは「悔いなく生き切ること」を中心に深めていく生命学となる、ということが最近ようやく分かってきました。

ここまで来るのに、長かった・・・。しかしこれから先が、本格的な挑戦になるはず。

論文より引用:

生命学を構想する過程で分かったのは、生命学を実践してきた人々はおそらくいままで数限りなくいただろうということである。たとえば「補論2」で述べたウーマン・リブの女性たちや、青い芝の会の障害者たちは、生命学という言葉を使ってはいないが、私が生命学と名付けたいものを、十全に生き切ろうとしていたように思われる。いや、むしろ正確には、彼らが作り上げた生の軌跡が、様々なルートを通して私にまで届いて、私に言葉をしゃべらせているというべきである。同じような営みは、未来に向けても広がっていくであろう。私の書いたものを共感的に読んだ人が、その人独自の生命学を作り上げていくにちがいない。このようなことを考えるにつけ、森岡の生命学は、この世に無数にあり得る様々な生命学の、たかだかひとつの形にしかすぎないと、私は思うようになった。森岡森岡の生命学を追求し、AさんはAさんの生命学を追求する。そしてそのあいだで、やりとりがあり、学び合いがある。生命学とはそういう形で展開していく学なのである。

さらに、こういうこともしつこく考えました。

「生まれてきて本当によかった」とは、たとえこれまでの人生のなかで後悔や失敗があったとしても、この世に生まれてきて人生を経験できたこと自体は本当によかった、と肯定できることである。後悔や失敗が散りばめられた人生ではあるが、それでも、この世に生まれてきて人生を経験できたことは本当によかったと思えることである。

生命学の可能性がどこまで広がっているのか、まだ私には分かってません。とにかく追究していくしかないです。

「生命学とは何か」(『現代文明学研究』第8号(2007):447-486)
 http://www.kinokopress.com/civil/0802.htm

超簡単まとめページ
 http://www.lifestudies.org/jp/seimeigaku03.htm