巨大教会が政治を動かす

明日、7月10日(火)のクローズアップ現代。米国キリスト教会の政治的影響力についてのリポートがあるようです。

http://www.nhk.or.jp/gendai/

今、アメリカでは「メガチャーチ」と呼ばれる巨大教会を拠点に信者が急増。来年行われる大統領選挙にも影響を与える勢力として注目を集めている。メガチャーチはショッピングモールのような施設にレストランから託児所まで備えた一種のコミュニティー空間。格差や競争で分断された人々が集える「場」となっている。これまで宗教保守の牙城だったメガチャーチだが、信者の急増によって「中絶反対」「同性婚反対」だけでなく、「温暖化」や「貧困」といった問題も重視し、政策的には民主党に接近。"宗教に熱心な人=共和党支持"という構図が変わりつつある。宗教と政治が密接に絡み合うアメリカで、早くも過熱する大統領選の知られざる側面に迫る。
(NO.2441)

サンデル『完全無欠への異議申し立て:遺伝子工学時代の倫理』

The Case against Perfection: Ethics in the Age of Genetic Engineering

The Case against Perfection: Ethics in the Age of Genetic Engineering

ハーバードの哲学者サンデルが、新優生学に対する反論の書物を出版したみたいだ。その書評が、昨日のニューヨークタイムズ・ブックレビューに載っている。サンデルは、新優生学に対する従来の批判を、見当違いの批判として退けると同時に、それとは別の根本的な批判点がある、と主張しているようだ。その点とは、われわれが生まれたときに与えられたものgiftの大切さが失われていくことだ、という感じらしい。

レビューでは、Willian Saletanが、次のようにまとめている。

Why should we accept our lot as a gift? Because the loss of such reverence would change our moral landscape. “If genetic engineering enabled us to override the results of the genetic lottery,” Sandel worries, we might lose “our capacity to see ourselves as sharing a common fate.” Moreover, “if bioengineering made the myth of the ‘self-made man’ come true, it would be difficult to view our talents as gifts for which we are indebted rather than achievements for which we are responsible.”

ところで、Saletan自身は、サンデルには反対のようだ。与えられたものをきちんと守る社会か、自由に自己を改変していく自由のある社会か、どちらかを選ばねばならないとしたら、Saletanは後者を選ぶと言う。

Given a choice between a world of fate and blamelessness and a world of freedom and responsibility, I’ll take the latter.

これはいかにも、米国の生命倫理の、保守派vsリベラル派の典型的な対立図式である。端から見ていて思うのは、もういいかげん、この図式は卒業したほうがいいんじゃない?ということだ。

だがしかし、米国の英語帝国主義パワーでもって、この図式が今後の世界をさらに席巻していくことは間違いないであろう。この本が英語で出るから、こうやって日本の学者も注目する。日本語で同じ品質の本が出たとしても、日本以外では(ジャパノロジストの他は)誰も注目しないだろう。ポストコロニアリズムの英文学術書が、英語帝国主義のマーケットに乗って、世界の学術に輸出されていくというのと似た構造がここにはある(ネグリ=ハートの「帝国」がハーバード大学出版から大々的にマーケティングされるとか、そういうの)。ほんとうは、彼らとわれわれは別の方角からこのこと自体を問わないといけないのに、と私は思うのだが。

『難民』とは誰か

昨日、「Women in Struggle パレスチナ・女たちの闘い」上映会に行ってきた。岡真理さんや岡野八代さんもラウンド・トークでいらっしゃって、豪華。
映画の内容自体は、パレスチナ解放闘争を戦う女性たち4人の生活を追い、「証言」でつづるドキュメント。パレスチナをめぐる世界情勢と、パレスチナ内部での女性差別という「二重の差別」に抗して、彼女たちは立ち上がる。そのやむにやまれぬ困難さは、翻って私たちに「私たち自身の暴力性」を自覚させる。実際、いま建設最中の「分離壁」は、じかにパレスチナの人々の生命を奪うものではない。しかし、たとえば20分で職場に行けたところを、迂回せざるを得なくなり2時間かかってしまったりする。「分離壁」は、じわじわと生活を追い詰めているのである。私などは、A.センの言う"capability"の視点から、生活や生き方の幅が狭められていると理解した。
関連して、次の本。

難民 (思考のフロンティア)

難民 (思考のフロンティア)

小森はベンハビブ『他者の権利―外国人・居留民・市民』で展開されている、アーレントの「諸権利を持つ権利」とカントの歓待論との総合をめぐる議論を紹介しつつ、難民をめぐる議論を展開しようとしているが、理論的にこれはいけているのか。端的に、市野川の言うように、難民とは「生活上の困難に直面する民」(p.84)のように集約されまいか。だとすれば、障害者問題も、低賃金労働・過重労働問題も、広い意味で「難民」問題であろう。
最後に上映会の話に戻ろう。岡野はパレスチナ人女性が<身体>や故郷としての<土地>を貶められ、傷つけられ、奪取されることが理不尽だと思うことについて、「それらは自分ですら制御され得ないものだからだ」と言っていたことが非常に印象的であった。「自分の身体が自分ですら制御できない/しない」という思考は、立岩真也加藤秀一らの粘り強い議論がある。岡野がパレスチナ女性をめぐる身体/土地の議論に「他者性」を見出していることは、慧眼に値すると思いながら話をお聞きしていた。