マイルス・デイビスの音楽愛

マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)

マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫)

マイルス・デイビスの自伝はとてつもなく面白い。マイルスは勉強家だ。あの風貌と伝説からしてそういう感じはしないだろうが、自伝を読むといかに勉強好きかというのがわかる。それとともに、いかに音楽を愛していたかも分かる。愛していたというか、音楽それ自体になりたかったんだろう。

マイルス18歳のときの回想。

まいったことに、我を忘れて二人に聴き入っているのは、このオレだけじゃなかった。バンド全体が、ディズとバード、特にバードが演奏するたびに”絶頂”を迎えているみたいだった。バード! 信じられなかった。バンドにはサラ・ボーンもいた。サラは今も昔も変わらない、たいした女だ。サラが歌いはじめると、ディズやバードがもう一人いるみたいだった。みんなはサラを、もう一本のホーンみたいに感じていた。(11頁)
 *註 ディズ ―― ディジー・ガレスビー / バード ―― チャーリー・パーカー

初めてディズとバードを聴いた一九四四年のあの夜のフィーリング、あれが欲しい。もう少しというところまでいったことはあるが、いつもあとちょっとだ。近いところまではいくんだ、でもやっぱり違う。それでもオレは、毎日演奏する音楽に、あれを求めている。もう一度あの体験を味わおうとしている。あの時の音を聴こう、感じようと求めつづけている。(14頁)

音楽について書かれた文章で、私が読んだもっとも美しい文章のひとつである。マイルスは求道者であると自己認識していたのだろう。音楽と一体になりたい、音楽そのものになりたいという希求が、彼の人生そのものだったのだろう。晩年になっても若きマイケル・ジャクソンのライブにお忍びで行って対抗心を燃やしていたという伝説も分かる気がする。

こういう濃密さの中に私も浸っていたい。

カント『道徳形而上学原論』

kanjinaiさんの「極限状況論・補遺」への応答はいましばし待っていただき、この問題に類似の問題について、カントならどう答えるだろうか。

道徳形而上学原論 (岩波文庫)

道徳形而上学原論 (岩波文庫)

第二の人は、困窮して金を借りねばならなくなっている。彼は、他日その借金を返済できないことをよく承知している。しかし、一定の期限に返済することを確約しなければ、一文も貸してくれないということもよく承知している。彼は、こういう偽りの約束をしたいのだが、しかしこんな遣り方で窮境を切り抜けるのは義務に反するのではないか。また許されないことではないのか、と自問するだけの良心をまだ残している。それでも彼がこの偽りの約束を決意するとしたら、彼の行為の格律は、こういうことになるだろう、――「私はいま本当に金に困っている。それだから金を借りようと思う。またいつになっても返す当てのないことを承知していながら(偽って)返済を約束するつもりだ」。この自愛あるいは私利の原理は、おそらく私のさきざきの生活の安泰にとって頗る好都合である。だがここに問題がある、すなわち――そのような行為は正しいかどうか、ということである。そこで私は、この場合の自愛の不当な要求を普遍的法則に引き直して、次のような形に仕立ててみよう。「もし私のこの格律が普遍的法則になるとしたら、いったいどんな事態が起きるのだろうか」。すると私は、直ちに次のことを知るのである、――このような格律は、普遍的自然法則としてとうてい妥当し得るものでないし、また辻褄の合いようがなく、とどのつまりは自己矛盾に陥らざるを得ない、と。実際、何びとによらず自分が困っていると思ったら、初めから守るつもりのない約束を、思いつきしだいに取り極めてよいという法則が成立して普遍性をもつとしたら、この普遍性はかかる約束そのものを、或いはまたこれにもとづいて立てられた目的をも、みずから不可能にするであろう。かかる不実な人の持ち出した約束など信用する人はひといもいないだろうし、それどころかこういう空約束を、本心とは裏腹の口実として嘲笑するに違いないからである。(pp.88-89)

ちなみに、カントははじめに絶望による自殺の正当性について、第三には天賦の才能に恵まれた者が努力しないことの正当性について、そして第四には人を助けることができるのに他の人たちの困難を見ているだけの正当性についてそれぞれ議論している(pp.87-91)。
カントの論理から言えば、お金に困っている者がこのような約束をすることは普遍化できない、ということになるだろうか。「自問するだけの良心をまだ残している」というあたりがポイントでしょうか。