他者の承認抜きには、存在承認は了解できない

 mojimojiさんの「承認は分配できるか(財のように)」という記事のコメント欄で議論が始まり、お返事に「既に承認されて在ることを信じる」を頂き、さらにx0000000000さんの「信仰と信仰のシステム」という記事に議論が続いている。ここで、私の考えを整理しておこうと思う。

 私が問題にしているのは、「存在承認の了解」である。
 人は無からは生まれない。なんらかの他者の営みから生まれてくる。そういう意味では、全ての人は誕生する時に、原理的には、他者に存在を肯定されている。たとえ生み出した人間から「望まない」「望んでいなかった」と言明されていても、殺されなかったという事実によって、その人の誕生の瞬間に起きた、原初的「存在承認」は担保されている。「存在承認」を経験したことない人はいない。この世に生まれ出ることとは、純粋な「存在承認」の発露だ。*1
 だが、人は誕生の瞬間の記憶はないので、純粋な「存在承認」とは体験的に覚えておけるものではない。そこで、具体的な他者からの承認*2の経験から、純粋な「存在承認」を想像する。もちろん、人に人を完全に承認しきることは不可能なので、一部のアイデンティティの承認に留まる。この不完全な、具体的な他者からの承認を受けることで、私たちは「承認」という概念を獲得する。ここから人は、想像力により、生まれてきたときに受けたであろう、純粋な「存在承認」の経験を、自らの生から彫り出し、「生まれてきてよかった」と思えるのだ。
 この「生まれてきてよかった」というのが「存在承認の了解」である。原理的には、人は皆、純粋な存在承認を通過して、この世に生み出されたと言える。しかし、それを了解するためには、常に不完全な、人間同士の承認の経験を通して「承認」という概念の獲得が必要である。純粋性には、不純物を通してしかアクセスできないのだ。
 私たちは、全ての人に「あなたは生まれた時に存在承認されている」と伝えることはできる。しかし、それを了解できない人に必要なのは、その原理の伝授ではなく、「私からあなたを承認する」という行為である。しかし、全ての人を直接的に承認することは難しいので、x0000000000さんの言うとおり、社会的に承認する基盤を整備することで勘弁してもらうことも多いだろう。少なくとも、自己内で存在承認を完結させることはできないのだ。*3

*1:有であることをゆるされること

*2:有であってよいとされること

*3:これについては、知人に別の考えを聞いた。次のものである。"自己を自己で承認するときには、自己を「承認する自己」と「承認される自己」に分裂させなければならない。ということは、自己承認には、常に「承認する自己」の部分が承認しきれない、構造ができる。であるから、自分で自分をまるごと肯定することは不可能である。"しかし、私はこの自己承認じたい、他者からの承認の経験抜きに、どうやって学習するのかが不明である。もし、学習抜きに可能だとすれば、それは人間のnatureということになるけれど、この議論はあんまり美味しくない気がする。