パーソン論と障害者

北海道大学で開かれている応用倫理国際集会というのに行ってきた。2日間ずっと英語漬けだったので頭がパーになってるが、気づいたことをひとつだけ。英語圏からの学者たち(白人男性がほとんど)のあいだでは、「自己意識と理性ある者のみが人格であり生きるに値する」という「パーソン論」が当然のように支持されている傾向にある。日本での業界では「パーソン論」に疑いの眼差しを向けるのがある種共通了解っぽいが、それは英語圏の共通了解とは異なる。日本人女性スピーカーが青い芝を引き合いに出して、障害者からの声を聞くべきと言ったのに対して、海外からの学者が、「では親の声は聞かなくてもいいのか?」とすぐさま質問した。スピーカーは返答に苦慮していた。私が司会した分科会では、英語圏からの学者が、自己意識と理性のない段階の赤ちゃんは殺すことも許されるという発表をしたが、会場からはその結論に対する異議は出なかった。(私は司会だったので発言する時間がなかった)。

日本の生命倫理・障害学の暗黙の雰囲気は、英語圏生命倫理の舞台ではあまり通用していない(らしい)ということを再確認した。これだから、昨年の米国での生命倫理の会議に私が参加したときに、米国の障害者団体が会場になだれ込んで実力行使をしたのだろうと思った。(保守派は障害者の権利を擁護するが、背後にはGodがいるので、障害学とはちょっと違うように思う。詳しくは、http://www.lifestudies.org/jp/handai02.htm あたりから調べてみてください)。